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良い種をまく

  • Writer: yoichi
    yoichi
  • Jun 14, 2020
  • 8 min read

"愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。" 詩篇 14篇1~3節 イザ 32:15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。 32:16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。 32:17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。 32:18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。 32:19 ──雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。── 32:20 ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。

32:16 「公正は荒野に宿り、」とは

イザ 43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

イザ 35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。

詩篇 107篇35~38節 主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え、 そこに飢えた者を住まわせる。彼らは住むべき町を堅く建て、 畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、豊かな実りを得る。 主が祝福されると、彼らは大いにふえ、主はその家畜を減らされない。"

苦しい時、即ち我々が荒野にいる時、神様は公正にチャンスを与え、「荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え」るのであり、そして我々は誰もがこれを苦しい時に求める。まさに苦しい時の神頼みである。そして私たちはこの自分が苦しい時の神様の救いの話は大好きであり、最も好む。

ルカ 17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。 17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。 17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、 17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。 17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。 17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」 17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

時として私たちはこの9人の癒されたもののように主を叫び求めていた日々の苦痛を抜けると主を忘れる。

しかし、32:16の後半からこう書いている。

32:16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。 32:17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。

義は・・・・「もたらす」の部分

The effect of righteousness—עבדת abodath, the culture. 文化

振る舞い、束縛、影響、はたらき、耕すこと、用いること、働き、念入りにつくられた、

文化

ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ。総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。

共に耕して生きることで文化が生まれる

「義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」

信頼

בֶּטַח beṭach beh'-takh From H982; 正式には避け所。抽象的には事実である安全と感覚である信頼を含めて安心感、安全に、確信、大胆さ、用心なしに、確かであること、希望、安全、安全にされていること、確かに

つまり、

『義は平和をつくりだし、義の文化(あるいは行動の習慣や価値観)は永遠の平穏と安心。』

が直訳。

義の文化とは何か? 義とは神の目から見て正しいこと。

前段の「32:16 義は果樹園に住む。」に注目。果樹園とは種を蒔いて育てて収穫する場所。

つまり、義は共に何かを耕す中に宿ることができるわけであり、そしてそれが平穏や安心を生み出す。

共に何かを耕さない人と平穏や安心は生まれない。果樹園に入っても、そこで果実を取って食べるだけでは、何も生み出さず、やがては果樹園が滅んでいく。

仕事や会社、家庭も同じである。そこに入って果実を手にしているだけだと、やがて破綻していく。そこにいる人々と共に何かを耕し、種を蒔いて、育て、収穫していかないといつかは破綻する。

果樹園に住み、そこで種を蒔いて育てることは私たちの人生に必ず必要な行いである。ノアの洪水の後に神がノアに語っている。

8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

そして蒔くべき種とは何かについてこう教えている。

ホセ 10:12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、【主】を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

またイエスはこう言っている。

マル 4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

そして義の種を蒔くのは平和をつくる人による。

ヤコブ 3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

そして種を蒔き農園をそだてるなら、それは隣の荒れ地を開拓し広げていくのが基本。

エレ 4:3 まことに【主】は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

種は豊かに蒔かなければならない。

Ⅱコリ 9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

何の種を蒔くのか、蒔いたら蒔いただけではなく、その後、いろいろなことをして手入れをし、種を育てて収穫に至らなければならない。

ガラ 6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

工夫が大切

イザ 28:24 農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか。 28:25 その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦をうねに、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。

"イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。"

マルコの福音書 4章33節

聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

私たちは人生の困難に直面したとき、荒野で飢え乾き、主に救いを求める。主はその恵みによってルカ17:22の10人のツァラトにおかされた人々のように私たちを困難から救う。しかし、多くの人は救われたら忘れてしまう。せっかく荒野から果樹園に入れてもらいながら、耕さず、種を蒔きもせず、生えている実を食べるだけだったら、やがて果樹園が荒廃し、私たちは居場所を失い再び荒野に戻ってしまう。困難な時に救われ、導かれて果樹園に入ったら、それを大切に守り育て、種を蒔き、手入れをし、収穫をしていかないと、人生は再び荒廃する。

ヤコブ 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

行いの大切さ、果樹園で耕し、種を蒔き、育て収穫することの聖書での意味をかみしめると、次の聖句の意味もよくわかる。

< 126 > 都上りの歌 126:1 【主】がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。 126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「【主】は彼らのために大いなることをなされた。」 126:3 【主】は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。 126:4 【主】よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。 126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

ろマタ 13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

良い種を蒔く、それは荒野出す枠れた後、自分の果樹園を耕し、種を蒔き、育て、収穫することの始まりである。

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