復讐するは我にあり
- yoichi

- Jan 1, 2021
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復讐劇は常に人の心をとらえ、人は復讐心を握りしめると手放せなくなり、本来はその手に握りしめるはずの未来を握りしめず、過去と復讐を固く握りしめたまま硬直してしまう。
赤穂浪士
元禄15年12月14日(現在の1月30日)に赤穂浪士が討ち入り。
もともとは赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城で吉良義央に礼儀をとがめられたことに立腹し、刃傷沙汰を起こしたため、切腹を命じられたことに端を発する事件。
名古屋では、愛知県吉良町の藩主であった吉良氏は善良な殿様として認知されており、赤穂浪士のドラマが12月のこの時期に全国放送されるたびに、地元の東海テレビなどで吉良氏の話を放映している。
浅野家がお家断絶となり、臣下300名以上のうち、百数十名ほどが最初は血判状に判を押したが、大半はやがて脱落。町人として家庭を持ち、あるいは他家に使えることで皆、生計を立てたことによる。最終的には食いはぐれた者を中心に47人が討ち入り。うち一人寺坂吉右衛門信行は、吉良氏を打ち取った後に離脱、残ったのは46人。
物語では、江戸に武器を持ち込むときに見逃したり、討ち入る吉良家の両隣に手出し無用の挨拶をしてから討ち入り、両隣の家からは明かりをともしてもらったとして「あいかたじけない」といった義理人情の展開。劇、ドラマや映画では、復讐を見事に果たした達成感のあるエンディングになっている。
しかし、結局、討ち入りをし吉良氏を打ち取るも、一年後に全員切腹を命じられている。実際には当時は脇差を腹にあてたときに、介錯にて死亡している。
これは新井白石らが、彼らが生き延びた場合、英雄扱いされ類似事件が続発し治安/支配体制が悪化することを恐れたこと、彼らのその後の不埒な行いにより武士全体の名誉がけがされることを懸念してのこととされている。
切腹した46人の辞世の句は、達成感というよりも、未練を引くことをにじませるものとなっている。また、残された家族は誰からの援助もなく経済的に困窮することとなり、結局、復讐の達成は何も生み出していない。単に本人のその場の感情の達成感程度。
ベンハー
タイタニックが1997年にヒットするまでは、映画史上最も観客動員数を記録したふき夕の名画。無実の罪に陥れられ、メッサラにより母と妹を刑務所に入れられ、自身は奴隷として奴隷船に送り込まれたベンハーの復讐劇。
ベンハーが奴隷船送りとなり、ガリラヤ地方に引かれていったとき、他の囚人たちは村人から水をもらえたが、ベンハーに水を与えようとした村人は、ローマ兵にさえぎられる。渇き苦しむベンハーは神に救いを求める。
そして、それを見ていたひとりの男が静かにひしゃくに水をくみ、ベンハーに差し出す。ローマ兵はその男の静かな迫力に恐れをなし、見て見ぬふりをする。
やがてベンハーはローマ人の海軍提督 アリウスの養子となり、アリウス2世と名乗りユダヤに戻ってきて、宿敵メッサラと洗車レースで対決する。当時、戦車レースでは殺人を含めてすべてが合法とされていた。
そして有名な戦車レースのシーン。メッサラはベンハーを殺そうとするが、最終的にメッサラは自分の操作ミスで戦車が大破、馬にはねられる。
瀕死のメッサラにベンハーが勝ち誇ったように会いに行くが、実は母と妹は生きているが、ライ病になっており、生きるよりもつらい状態であることを知らされ、衝撃を受ける。
そしてキリストの十字架を背負って歩くところに出会う。そして、彼こそが自分が飢え乾いていた時に静かに水を差しだした人であったと気づく。そればかりか、今まで偶然と思っていた数奇な運命の出来事の背後に神の不思議な導きがあったことに気づく。
キリストが十字架の重みに耐えかねて倒れた時、彼はキリストに手を差し出すがローマ兵にさえぎられる。そして水を汲んで差し出すが、それもローマ兵にさえぎられる。ただ彼を見つめるしかできなかった。
しかしベンハーは、十字架につけられるイエスを見届け、神が実は自分に何を背後でしてくれていたのかに気づき、その愛の大きさを知り、今までの怒りと憎しみから解放され癒される。
イザ 63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
結局、人は何を復讐しても憎しみは消えず、心の傷は消えない。ただ神による癒し以外には解決はない。
イザ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
ベンハーの中では、何度もベンハーは神に向かって復讐を誓い祈る。さてイエスは祈りについてこう教えている。
マタ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:9-10は当時のユダヤ人にとっては枕詞のようなものであった。そして長く祈っていた。
人々はエルサレムの嘆きの壁で長時間祈っているように、あるいは教会で長時間、数多くの自分の事を祈るように、当時は長く数多く祈っていた。
だからその前の部分では次のように言っている。
マタ 6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
つまり、イエスは長々と祈るのではなく、神は全てを知っておられるのだから、手短に大切なことだけを祈りなさいと言っているのである。
そして必要なこととして、
マタイ6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
の二つをシンプルに付け加えている。
ここで日ごとの糧とは、健康を支えるのに足りる食べものである。人は飢饉で食べ物が不足すると、ついには母が子を食べたりするのであり、人が人であるためには最低限度の足りる食べ物が必要である。
また、負い目とは、私たちの罪の事であり、私たちは神から見て数多くの罪を抱えている一方、私たちに対して周囲の人も多くの罪を私たちに犯しており、反対に自分も周囲に数えきれない罪を犯してしまっている。そして、その罪が許せないものとなると、最初に述べた憎しみや復讐心が生まれ、私たちはそれを握りしめてしまった瞬間、自分の未来を手放してしまうことになってしまう。
私たちが人として、神と正しく交わり生きていくには最低限の条件として、食べ物が足り、周囲からの自分に対する罪と自分から神に対する罪を手放すことが大切である。これさえ整えば、あとは神が私たちに必要なものを与えることで正しく生きていけるようになる。
そしてそれが整うと私たちの体は、どのような罪や汚れ、問題があっても、神の神殿なのである。これは神殿を立てる時、その場所、地域、国はそれぞれ何かの問題があり、罪があり、汚れがあるのと同じである。私たちは決して完全に清い場所に神殿を建てることはできない。神が幕屋を建てるのと同様、神が私たちの体を神殿と言い、幕屋だと言っているのである。
Ⅰコリ 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
このパウロの言葉は、イエスがこう教えているからである。
Ⅰペテ 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
また、イエスはこうも言っている。
ヨハ 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
私たちは、神殿である私たちの体、その心の中で霊とまことをによって礼拝するのである。
エペ 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
そして神の宮の中、神の宮である私たちの体と霊においては、こう祈るべきとイエスは教えている。
ルカ 18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
私たちは決して、清い聖人のように神の前に祈る必要はなく、「ことにこの取税人のように」と見下された、罪びととして祈ってよいのであり、そうすべきなのである。誰も聖人などいるわけがないのである。神の前に清くなければいけないと言い出すなら、私たちは誰一人として永遠に神の前に行けないのである。私たちが今の自分を率直に認めて、神の前に出ること、今のそのままの自分の体と心を神の神殿と認めて受け入れること、それが神が私たちに望んでいることであり、決して完璧で潔癖な聖人のような人を神は期待し望んでいるのではない。だから続けてイエスはこういっている。
ルカ 18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
そしてもちろん、私たちは何度も渇く。そしてそのたびにイエスは涸れることのない泉から私たちに水を飲ませるのである。
ヨハ 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
私たちが苦しんでいる時、実は私たちは気づいていないが、神もともにそこにいるのである。
イザ 63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
だから私たちが、たとえどのような状態であろうとも、罪があろうとも、自分の体と心を神の神殿と認め、祈る時、神は静かにこう答えるのである。
イザ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
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