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正しいセルフ フォーカス

  • Writer: yoichi
    yoichi
  • Dec 30, 2020
  • 9 min read

セルフ フォーカス ; 自己に焦点を当て、自分を吟味すること。


聖書信仰ではもちろん信仰的な成長に自分を吟味することは大切ではあるが、それが聖書の大切な根本/信徒の義務であると誤解しているケースが多い。その結果、神は私たちに自分を省みなさいと言いませんでしたか? と問われたり、そう考えたりと色々と悩み始める。

・自分は霊的信仰的に成長したか?(人として成長したか)

・自分は本当に悔い改めているか?(自分の欠点、弱さを克服しているか)

・自分は十分に祈っているか? 祈りが足りないのではないか?(夢に向かってもっと努力しているか)

・神は私を喜び愛してくれているのだろうか?(私は人から愛されているか)


これは人生の避けて通れない問題でもあり永遠のテーマであり、数多くの小説の題材にもなっている。そして自分の内面に焦点を当て、吟味することを過度にすると、結局多くの場合に自分を落胆させ、打ちひしがれた思いを強くさせるだけに終わる。あるいは、そこに第三者が入り込むと支配の入り口に用いたり、スピリチュアル的な信仰や新興宗教で用いられると、洗脳支配、まじないや札やお守り、縁起担ぎ、風水などに走る。


ただ真実は

ローマ 3:10 義人はいない。ひとりもいない。

であり、私たちは誰しも、心の中を見回すと、その外れの山すそにたくさんの子豚を飼っているのです。子豚を飼っていない人はいないのです。


では神は正しくは何と言っているのか?


聖書では自分の事を省み、吟味することについて、二つだけしか述べておらず、そのいずれも自分を省みることを徹底することを求めていない。これが真実である。


まず第一は、パウロが第一コリントの手紙でその教会の人々に対して、大きな罪を見て見ぬ振りをしていることを指摘している事である。


Ⅱコリ 12:21 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行った汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。


これはIコリント 5:1を踏まえての言葉。当時、コリント人のようとは、姦淫の極みの振る舞いを指していた。

Ⅰコリ 5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。 5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。


Ⅱコリ 13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。── 13:6 しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。

これは自分の事を省み、吟味するというよりも、むしろ本当に信じているかどうか、ちゃんと今までの生活から足を洗ったのか、信仰を持っていることの確認を求めているだけである。


もう一つは次である。


Ⅰコリ 11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。 11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。


ここでパウロは、各自が自分の罪や欠陥を完全に直した状態になるようにとは言っていない。問題にしていたのは当時のコリントの乱れた文化である。

Ⅰコリ 11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。 11:22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。


Ⅰコリ 11:34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。



イエスが自分の過去、現在、未来の全ての罪の代価として十字架につき、自分は罪から自由であるという確信に立つように勧めているのである。


ヘブル 12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。


また、次の二つの聖句もSelf-Focusに誤用される。


ルカ 12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。


マル 13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。 13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。 13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。 13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」


ここでイエスが教えているのはSelf-Focusの正反対である。門番は自分を見張っていたのではなく、帰ってくる主人を待って、見張っていたのである。イエスは私たちに自分の事を忘れ、主の王国の為に一生懸命働き、主の帰りを目を見張り待ちわびて、準備してほしいと願っているのである。

神以外に目を見張り、見つめるものはない。だからより神を見つめ、より少なく自分を見つめるべきなのである。

イザ 45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。


エペ 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、 4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、 4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。


もちろん、神は私たちに成長するために努力をしてほしいと思っています。しかし、自分に焦点を当てて、それを変えようとすることは、結局は徒労に終わるのです。

角度を変え、言葉を変えると、神はこう教えているのです。


Ⅱコリ 3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


顔の古いおおいを取り除けられて、主と同じ形へと、「主の働きによって」、変えられていくだけなのであり、自分で何かをするのではないのである。ただ一方的な「主の働き」という恵みで変えられるだけなのである。


25:15 私の目はいつも【主】に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。


16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。 16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

そして主は自分の事に過度に焦点を当てることを戒め、こう言っています。

イザ 58:5 わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、【主】に喜ばれる日と呼ぶのか。

そして、自分のことに焦点を当てるよりも、次のことが大切だと説いています。

イザ 58:6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。 58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。 58:8 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、【主】の栄光が、あなたのしんがりとなられる。


しんがりaw-saf'

A primitive root; to gather for any purpose; hence to receive, take away, that is, remove (destroy, leave behind, put up, restore, etc.):—assemble, bring, consume, destroy, fetch, gather (in, together, up again), X generally, get (him), lose, put all together, receive, recover [another from leprosy], (be) rereward, X surely, take (away, into, up), X utterly, withdraw.


何かの目的の為に集まる、回復される、受け取る、報いとなる、方向を変える、すべてを集めてつなげる、食い尽くす、いままでのものを破壊する、


私たちが自分の事よりも、周囲に関心を向け、周囲を大切にした時、主はその恵みにより私たちの傷をすみやかに癒し、私たちを変え、回復させ、主の栄光が私たちの報いとなるという意味。

これは決して罪滅ぼしと言う「行いによる清め」の概念ではなく、主の御業のなす順番がそうなっているのである。罪滅ぼしを得る目的で行うのではなく、主の定めた順番に従って道順を歩むことを勧めて言っているのであ。

そして続けてこう言っています。

イザ 58:10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。 58:11 【主】は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。


これを踏まえて考えるとバプテスマのヨハネがイエスを見て言った言葉の意味が良くわかるのです。

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。


当時のユダヤはローマの支配下であり、皆、自分の事に精いっぱいで、他人には同じ民族でも手を差し伸べなかったギスギスした時代であった。これは今の世界も何も変わっていない。まずは自分の周りに小さな手を差し伸べ、小さな光を照らすこと、それが世の罪を少しずつ取り除くことになり、そしてその先に、自分の罪も主の恵みによりやがては自然と取り除かれていくことに繋がっていくのである。

ヨハ 15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


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