塗ってごまかしてはいけない
- yoichi

- May 31, 2020
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ボストン糖蜜災害 Great Boston Molasses Flood
1919年1月15日発生
高さ15メートル、直径27メートルという大きさで、870万リットルもの量の糖蜜を入れた貯槽
発酵させてアルコールを回収。糖蜜は比重1.4
当時は強度設計が確立されていなかった。
突然、タンクが崩壊、高さ9m、時速50kmほどの糖蜜の津波が町中を襲う。
死者21名、負傷者150名。
事故の予兆は以前からあった。
何度も細かいひび割れから茶色の糖蜜が以前から漏洩していたため、これをごまかすために漏れた周囲を茶色のペンキで塗っていた。
教訓; 自分のキャラクターにひび割れができて滲み漏れているものが有ったら、注意を払わなければいけない。決して同じ色のペンキでごまかしてはいけない。
しかし、神はそれに気づいて直そうとするなら、守る。
祈りは魔法や呪文ではない。
ヤコブの手紙 2章20節
"ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。"
イザ 42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。 42:2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。 42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
傷んだ葦とは、葦は弱いものの比喩であり、それがさらに傷んでいるとは今にも倒れそうなものを意味している。くすぶる燈心とはランプの油が切れ最後に煙が立ち上っている様子を示す。すなわち、どんな大きな罪を抱え、今にも倒れそうな人も主は倒すことなく、その残っているわずかな信仰を祝福し、これを回復させ救うことを意味する。
出 34:6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、 34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
ホセ 14:1 イスラエルよ。あなたの神、【主】に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。 14:2 あなたがたはことばを用意して、【主】に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。 14:3 アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」 14:4 わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。 14:5 わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。 14:6 その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。 14:7 彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
ミカ 7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。 7:19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
ミカ 7:9 私は【主】の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。
だからマタイの福音書でイエスの事をこう述べられている。
マタ 12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。 12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。 12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」 12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。 12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。 12:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。 12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。 12:19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。 12:20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
マタ 18:11 〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕 18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。 18:14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
ヨハ 10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
この言葉を語ったのは神殿の外側の廊下であるソロモンの廊での事である。ユダヤ人はその内側での礼拝認められていたが、異邦人はソロモンの廊でしか礼拝をすることは許されていなかった。外側の廊下とは即ち異邦人たちが礼拝を赦された場所であった。つまり「この囲いに属さない」とは信じていない異邦人をさす。
ヨハ 10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
そして、タンクに割れ目が走り、今にも破裂して人生が破綻しそうになっていた人がいた。
ヨハ 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、 8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
彼女は、恐らく今までその罪という割れ目から中の糖蜜が漏れ出てくるたびに同じ茶色のペンキを塗ってごまかし、なかったことにしてきたと思われる。そしてそれが今や破綻して破裂しそうになったその時、イエスはその傷んだ葦である女を折ることなく、優しく守り救い、そして次の人生を与えたのである。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」の言葉を人生の大きな境として、彼女はもはや「決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持った」のである。
ヨブ記のテマン人エリファズの言葉は時として自分の罪の割れ目からにじみ漏れるものに気が付いた私たちに襲い掛かる。しかし、後に神がヨブを祝福したことから神の前に間違いであるとされた考えである。ヨブ記自体が悪の因果応報説を延々と論じ、それを最後に神が否定する話である。
ヨブ 4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。 4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。
正しくは神は悪者の死を喜ぶことはない。神は私たちが罪を犯したとき、立ち返ることを待っている。
エゼ 18:21 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。 18:22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行った正しいことのために、彼は生きる。 18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
更に本当の神は時として打ち寄せる自分の罪の結果の嵐に心が折れ、くじけてしまった私たちを愛しておられ、ともに過ごしたいと願っている。それは次の聖句にもかかれている。
雅歌 2章10~15節 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。 いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。 『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」
イザ 40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
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