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マタイの福音書

  • Writer: yoichi
    yoichi
  • Jul 6, 2019
  • 11 min read

Updated: Jul 31, 2019

マタイの福音書

現在はマタイは有名な弟子であるが、当時の弟子の中ではあまり有力ではなかったようであり、その生涯は明確ではない。カトリックや東方教会では殉教したとされているが、ローマの歴史家ヘラクレオン(2世紀)の記述により否定されている。

伝承ではマタイはイエスの死後、パレスチナ地方で伝道していたが、その後、異邦人伝道の為に他のところに出て行ったと言われている。マタイの福音書はマタイがそのパレスチナを去るに際し、イエスの教えをあとに残る者たちに伝えるために書き記したと言われている。


マタ9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

西暦はイエスの生年を基準としているが、実はそれは後に決められたことであり、歴史家によると、ヘロデ王が死んだのが紀元前4年とされており、少なくともイエスの生まれた年は紀元前4年頃より以前と推定されている。

・書かれた年代は諸説あるがAD40~60頃とするのが有力

・イエスが十字架にかけられたのがAD30頃とすれば、その10~30年後、おおむね20年後の記述

我々が2000年頃の出来事を詳細に記述できる程度には記憶していたことは間違いなく、イエスの教えと宣教をほぼ残していると考えられる。

年代的には4福音書の中で最古の福音書。


マタ5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。


マタ5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

「幸い」; 直訳は幸いと訳されるが、当時のギリシア哲学的な概念として「所詮滅びゆくはずの人間が、不道徳な偶像や移り気な幸運の女神などに支配されているのは不安定」なので幸せではない、つまり救いが必要だという事を背景に暗示させている言葉。当時の詩人の言葉で「滅びゆく汝、不道徳な偶像に幸せを求めよ。」というのもある。

聖書にもこう書いている。


詩4:6 多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」【主】よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。


詩 10:3 悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、【主】をのろい、また、侮る。


黙3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

「幸せ」或いは「祝福された生活」を得ようとして、この地に目を向け、金銭的な豊かさや権力を求めるのは本質的に間違い。これらは決して人を幸せに導き、祝福された人生を約束するものではない。

そしてイエスが地に来て、山上の垂訓でここに光を当てている。

「心の貧しい人」; 心及び霊において貧しさと不幸を深く感じ取ることができる人を指す。Πτωχος,( ptōchos/ pto-khos'貧しい人)という言葉は「震える、恐怖で委縮するという」意味の言葉からきており、乞い求める、乞食を指す。真に豊かな人のもつ貧しさとは、自身の魂の必要としているものに震えおののいて生き、やがて神の救いを受けずして滅んでいくことに恐れ委縮し、救いを乞い求めている人を暗に意味する。

そしてイエスは、このような人々にはその解決として天の御国が与えられるから幸いであると述べ、救いを求める民の声に答を与えて宣教を開始。

あるいは結婚


創 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

第752条夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

「結び合い」; דָּבַק dâbaq daw-bak'

結びつく、抱きしめ続ける、一緒に我慢辛抱する

人生の辛苦を一緒に辛抱して共に超えていく。相手を選ぶ自由(=婚姻の自由)のみが強調されているがそうではない。


マタ 4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

悔い改めなさいは、罪を指摘し責めるのではなく、「進んでいた向きを変える事」を意味するのであり、むしろ人として幸せや祝福の原点に戻るように呼び掛ける言葉。ある意味での世の幸せを追求することに迷わされ疲れ果てた人々に対する呼びかけかもしれない。エデンの園から出たアダムとイブに対して、再び神の元へと呼び戻す呼びかけでもある。

つまり、自身あるいは民族がローマに征服され、ローマにすり寄るふしだらなヘロデの下に苦しみ、滅んでしまうことに震えおののき、救いを哀れな乞食のように求める当時のユダヤの民を対象として、人生の向きを変えましょう、祝福が来ましたと呼びかけたのである。

キリストは祝福するために地に来た。


使 3:26 神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」

そしてアブラハムとの約束がその背後にある。


創12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

そしてこれはマラキ書の成就でもある。


マラ4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」


5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

霊的な貧しさを感じ悲しむ人々に向けて、励まし述べている。


詩 74:19 あなたの山鳩のいのちを獣に引き渡さないでください。あなたの悩む者たちのいのちを永久に忘れないでください。

74:20 どうか、契約に目を留めてください。地の暗い所には暴虐が横行していますから。

74:21 しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。

また、申命記に従い、呪いを受けないように主の道の側に向かって辛くても歩むこと、それは人生を進むにつれて大変な事であり、背いた時にはそしられる。しかし、恵みとは、ヘブル語では人生に対する忠告・訓戒を意味するのであり、そしられて過ちに気づいて主に立ち返る、即ち悔い改めるなら、それは祝福になっていく。


申 27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。


ゼパ 3:18 例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたからのもの。そしりはシオンへの警告である。

律法の道は私たちが全うできるものではない。律法を真剣に考えれば考えるほど、人生は大変なことになってくるし、この世の日々の苦難と労苦も多々ある。そして疲れた人は休ませると述べている。


マタ6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。


マタ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。


5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

「柔和な者」とは、静かで落ち着いた(Gentle)な魂を持ち、誇り高く常に上から目線の律法学者や物書きたちとは対照的な心を持った人のことを述べている。英語のGentlemanも本来はこの意味であった。

「地」とはもともとの言葉では一般にカナンの地をさす。つまり豊かで乳と蜜の流れる地を霊的に手にし相続すると暗示して言っている。


テトス 3:2 また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。


出 3:7 【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。


5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

イエスはこうも言われている。


マタ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

主は憐れみを好む。


イザ 58:6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。

58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。

58:8 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、【主】の栄光が、あなたのしんがりとなられる。

58:9 そのとき、あなたが呼ぶと、【主】は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、

58:10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。


マタ 25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』


心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。


詩24:3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。

24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

24:5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。


ルカ 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、

7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。

7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。

7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。

7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。

7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。

7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

7:47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

この罪深い女の姿に、山上の垂訓で主が語られたことを重ねてみると主の伝えたいことがよくわかる。


ロマ 13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。


ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

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