2020.4.5 礼拝メッセージ ; 主の祈りの実行とは十字架
- yoichi
- May 1, 2020
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4月12日がイースター
イエスは祈りを教え、それを実行した。
マタ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。 6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
ルカの福音書では弟子たちがイエスの祈る姿を見て、それに心を動かされ、祈り方を教えてほしいと願い、その求めに応じて祈りを教えたとある。
ルカ 11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
そしてイエスの祈りは神の御名があがめられるようにと、神を第一とし、神に栄光を帰し、そして次にこう祈った。
マタイ 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちは、自分に良いことが起こることが天の御心と思いがちであり、多くの祈りは自分に良いことが起こるようにとの願望の祈りでしかない。
しかし、これをイエスは、例え主の御心が自分にとってつらいことでも、その主の祈りにこたえる声に耳を傾け、受け入れ、その通りに受け入れたのである。
マタ 26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」 26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。 26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」 26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。 26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。 26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。 26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
しかし、人として地にいるイエスはその人としての弱さのゆえにこうも祈っている。
マル 14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
ルカ 22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
そしてイエスは受け入れたのである。
ヨハ 18:11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
また、主の祈りの中で次の祈りがある。
マタイ6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
聖書でイエスはこうも教えている。
マタイ 6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
そしてイエスは人の罪を赦した。
ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
イエスは人々の罪を赦したが、自分には赦してもらうべき罪はなかったことが聖書に書かれている。
ヨハ 19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。 19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
だから人々の罪を赦したイエスが本来受け取るべき、天の父からの赦しを受ける理由がないので、代わりにその赦しが私たちの上に恵みとして注がれているのである。
イエスはその最後まで天の御心の成就を受け入れた。
マタイ 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
ヨハ 19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。 19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。 19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
これは次の聖書の成就でもあり、初めから計画されていたことでもあった。
詩 69:21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。
そしてイエスはその天の御心の計画を成就した。
ルカ 23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
また、この十字架の計画は次のように共に十字架についた二人の罪びとさえも計画されていた。
マタ 20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
ルカ 23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そしてイエスは十字架上でも福音を伝える。
ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
マタイの福音書 27章25節
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」"
私たちの心の信仰のかもいの上に血が塗られている
また、兵士たちはイエスをあざけったが、イエスを救ったのは、イエス自身ではなく天の父であった。
ルカ 23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、 23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
つまりイエスを救った、即ち魂を受け取ったのは神であった。
ヨハ 19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。 19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。 19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
ロマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
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