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2019年4月29日 日曜メッセージメモ

  • Writer: yoichi
    yoichi
  • Apr 28, 2019
  • 9 min read

ある夜、ある教会の礼拝で若い女性が神様から導かれました。彼女は、神の召しに答えてイエスキリストを主であり、救い主であると受け入れました。その若い女性は、アルコール中毒、麻薬や売春をも含む非常に暗い過去を持っていました。しかし、彼女の中の変化ははっきりしていました。時が経つにつれ、彼女はその教会の信仰深いメンバーの一人になっていました。そして、ついには若い子ども達を教える役割をするようになりました。

この若い信仰深い女性が、牧師の息子の心と目を奪うまでに長い時間はかかりませんでした。関係は深まり、結婚を考えるようになりました。そして、問題が起きました。お分かりでしょう。教会の半分の人々が彼女のような過去を持つ女性が牧師の息子の嫁に相応しいとは思わなかったのです。

 教会の人々はこのことで議論を激しく交わしました。そして、彼らはミーティングを開くことにしました。人々が議論を繰り返し緊張が高まるにつれて、ミーティングは誰の手にも負えなくなりました。その若い女性は、自身の過去について持ち出される色々なことに心を乱しました。

 彼女が泣き始めると牧師の息子が立ち上がり話し始めました。彼は自分の妻がこうあるべきだと人々が勝手に思い描いていることに我慢できなくなったのです。彼は次のように述べました。「私の婚約者の過去は、今ここに裁かれている話ではないのです。皆さんが今、問いかけているのは、イエスキリストの血潮が、どれだけの罪を洗い流すことが出来るかを議論しているのです。今日、皆さんはイエスキリストの血潮を裁いてしまいました。このことは、十字架の血で洗い清められる罪でしょうか、どうでしょうか?」

人々はイエスキリストを神がまさに世に送りなされた事を忘れていたことに気付き、教会全体がすすり泣き始めました。

人の罪は目の前にあるから見えるが、自分の罪は背中に背負っているから見えないのだ。

トルストイ、「火を粗末にすると消せなくなる」より

イースターは復活祭であり、キリストが十字架の上で死に、三日目に蘇った日である。

神の国に入る条件とは何か?


ヨハネの福音書 3章5節

"イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。"

Adam Clark ユダヤ教に改宗する時、人々は水の洗礼を受け、それを通して偶像礼拝をやめ、イスラエルの神を唯一の神として受け入れ、聖なる法に従い生きることを約束した。しかし、その時点での水の洗礼は聖霊の看板でしかない。なぜなら、魂は過去の罪により依然として汚れていると考えられていたからである。だからこそ、水により体が洗い清められ、新しくされたのと同様に、魂も又、過去の汚れを洗い落とし、神の真実と聖さの中を歩くように強められなければならない。

だからこそバプテスマのヨハネはユダヤ人にとって分かりやすい暗示を用いて、水のバプテスマでけでは十分ではなく、炎と聖霊によるバプテスマを後々来ることを暗示し、彼らがイエスキリストを受け取るべきであることを述べたのである。


マタ

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。


イザヤ書 1章27節

"シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。"


悔い改め

Shoob/メタノイア

罪の意識に苛まれ、向きを変えること

イエスを救い主と受け入れたら、向きを変えなければならないのです

同じであってはならないのです。

少なくとも暗闇に行かないように踏みとどまらなければならないのです。

スキーで崖に向かっていたら向きを変えるのです。少なくとも踏ん張るのです。そして少しづつ向きを変えるのです。

だからこそ、主は我々に人は水と御霊によって生まれなければならないと述べたのであり、すなわち、聖霊により水のように魂を洗い清め、純粋なものとされなければならないと言ったのである。皆さんは水のバプテスマしか受けていませんか? それなら、皆さんはイエスの言葉を、まだしっかりと身につけていないなら、それを今、一瞬一瞬の自分のものとして神の国へと歩みを進めなければならないのです。

ですから私は皆さんに人は魂によって生まれ変わらなければならないとは簡単に言いません。絶え間なく祈って、祈っている神が何かをそれに答えて示され受け止めるまで祈るべきだと言います。


ヨハネの福音書 1章32~33節

"またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』"

この聖句を思い起こしてください。

・イエスだけが聖霊によってバプテスマを授ける方。

・このバプテスマを受けない人は神の国の権利や肩書きを受けるものではない。

・ただこの点だけがユダヤ教徒とクリスチャンを区別するもの。

イエスを救い主と受け入れることは、罪にまみれて生きていた過去との決別を意味します。そして時が経ち、イエスとともに前に向いて歩もうとする時、つまりイエスを主として生きることを決意する時も必要なのです。


ヨハネの福音書 3章19~20節

"そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。"

暗闇に近づかない、踏みとどまる、それがイエスを救い主と受け入れることであり、光に向かって進むことがイエスを主とすることかもしれない。


Ⅰコリ

3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

私たちは神の宮であり、その宮としてふさわしく悔い改めて(向きを変えて)、内部を整えなければならない。


ガラ

5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。


ヨハ

18:17 すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは、「そんな者ではない」と言った。"一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。


ヨハ

18:25 一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない」と言った。

18:26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」

18:27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。


ヨハ

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ペテロは回復の時間を過ごして立ち上がった。

人は罪を悔い改めても、すぐには主とともに歩めない。罪の傷口が回復していないからである。しかし時が来ると主とともに歩み、神の悔い改めを説く時が来る。


Ⅱコリ

7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。


列王記 第二 19章29節

"あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。"


イザヤ書 37章30節

"あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。"

一年目は命を救われ、二年目はヨベルの安息、そして三年目から働き始める。


エペ

2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、

2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。


テトス

3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、

3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

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