201911.24 礼拝メッセージ
- yoichi

- Nov 24, 2019
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「成熟とは世界が自分を中心に回っていないと発見することである」
ヨセフは次の言葉、即ち兄弟たちを最後に心から赦す言葉を、実は父ヤコブの死後に語っている。
創 50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
創 50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。
若い時のヨセフは自分中心で、自慢ばかりする男であった。まさに世界が自分を中心に回っていると考えていた。しかし、それが兄弟たちとの争いを生み、苦難に合い最後はなんとか正しい形で神の実を結んだ。
忠臣蔵 ; 元禄時代の実際の事件。若い赤穂の殿様の浅野内匠頭が、当時の慣習であった挨拶の進物を持たずに江戸城に上がったことをとがめた吉良に怒り、江戸城内で刀を抜き刃傷沙汰を起こし、切腹を命じられた。このため家臣は浪人となり、生活に困窮し、ついには12月14日に江戸の吉良家に討ち入り、仇討ちを果たす物語。
誰もが自分が困窮したら、その経緯は別として人を恨む。これは誰にでもあること。そして成熟していない人は、相手にスキを見つけて理由が屁理屈でも付けば、短気に報復に走る。忠臣蔵は、儒教的な観点で「主君の恨みを果たす」という解釈で正当化。その中で、「主君の恨みを果たす」という儒教的な義理と縛りと現在の自分という「人情」のはざまで揺れる一人一人の気持ちが人気となったストーリーである。最後に討ち入ったのはわずか47人。
実際、当時の幕府の議論でもこれを「義」として認めるかどうかで大きく揺れ、結果、これを形の上では「義」と認め武士の体制を追認する形をとりながらも、討ち入った全員に切腹を命じ、安易な再発を防止する現実的な手を打っている。
討ち入ったところで、結局、赤穂のお家再興はなるわけもなく、美談にされる一方で、ただ現実には破滅があっただけである。
二人の宣教師たちが、それぞれに与えられた宣教の地に出ていく前にあることを同意しました。それは、鹿狩りの季節の最初の日に狩りに一緒に出ようというものでした。彼らは何年かの間、これを果たしました。
ある年、彼らが狩りに出て藪をかき分けて進んでいくと、非常に大きな熊が野イチゴをむさぼり食べているのに出くわしました。熊は彼らの物音に気付き、ぬっと立ち上がり彼らを見つめ、仲間の方へと向きを変えていきました。彼らは直ちに恐ろしくなりました。「どうしよう?」一人が言いました。「熊を撃つんだ!」「できないよ」もう一人が言いました。「この地区では熊は保護されていて、違反すると罰金100万円なんだ!」もう一人が言いました。「走れ、走れ、走れ」
彼らは身を守るために林の中を目指しました。彼らは熊が息をするたびに出す唸り声を耳にしました。「どうしよう?」一人が聞きました。「祈ろう!」というのが即答でした。彼らはその途中で立ち止まり、次の祈りを口にしました。「天にいますわが父よ、どうかこの熊たちをクリスチャンにしてください。アーメン。」
そしてその熊たちは途中で立ち止まりました。二人の宣教師たちには熊の唸り声はもはや聞こえませんでした。彼らはゆっくりと振り返り熊を見てみました。その熊は地にひざまずき、その大きな腕を祈るように合わせて静かにしていました。そして彼らは熊たちがこう言っているような唸り声を聞きました。「天にいますわが父よ、私がこれから食べようとする食べ物を祝福してください。アーメン」
このお話の示すものは、祈った相手にも都合があるのです。
私が40年間の宣教生活で学んだ一つの事は、祈りの力を軽く見てはならないということです。私たちの、自己中心的な傾向と懐疑的な心は祈りの中に織り込まれてしまいがちなのです。私たちは、全てを思うままに行い、その通りにしたいと思うのです。
ある人は神は祈りに三つの方法で答えると記しました。「Yes、No、そして担がれた!」
誰かに言われて祈って、結果を見て、担がれた! と思った時もあるものです。
私たちの祈りが神にとってどのように響くか想像したことが有りますか? 私は、我々の祈りに対する神の答えはYes、No、ゆっくり進めましょう、成長しましょう、といったあたりだと思います。神は祈りにこたえる神です。私はそれを信じます。しかし、私たちがNoの答えを手にした時、成長しましょうとかゆっくりしましょうと言われた時、私たちは天の父が最善を知っていると信頼する必要があるのです。私たちには神の御手が見えない時、彼の品格を信頼するのです。No、ゆっくりしましょう、成長しましょう、といった答えで自分の祈りの人生をダメにしないようにしましょう。
他の多くのように、キリスト教は自分がその通り生きるよりも簡単に話をできるものですよね。簡単に教会に行けます。教会になることは大変です。聖書の通りに生きることは大変です。キリスト教を知っていることと、それを実践することの不一致は他の人々からみたら馬鹿げていると見えるのです。だから、クリスチャンたちは偽善者だと言われてしまうのです。
真実は人は自分の知っている聖書の通りに生きることに苦しむということです。全てのグループは偽善に満ちており、それは人の振る舞いというものは、自分たちがどのように生きるかということを最初に学び、徐々にそれに沿って統合されていくからなのです。知識は頭から始まり、そして心へと移り、最後には足へと向かうのです。足と心の距離というのは世界で最も遠い距離なのです。自分の知っている考えというものは、自分の人生に常に現れる振る舞いへと統合されていくのです。それは何か一度起きる事象ではなく、一つのプロセスなのです。そして、それは全ての人に言える事であり、教会の人だけではないのです。
自分が知り、そうしたいという望みは「信じているもの」というべきものです。常に行うものは、価値観です。例えば、自分がフライドポテトやポテトチップを食べるべきではないと信じているとしましょう。私はフライドポテトが炭水化物の塊で、飽和脂肪に漬けられて煮たてられたものであり、欠陥を閉塞させるものだと信じています。さて、私にフライドポテトを食べるか聞いてみるとします。もちろん、食べます。私は「信じているもの」がありながら、それは価値観になっていないのです。どれだけ偽善でしょうか?しかし、私たちが知ると同時にそれに沿った行動を常にとるようになるとすると、「信じているもの」は価値観へと変わることになります。
私たちは常に発展途上のものなのです。私たちはお互いにこの点について少しの恵みを与えられるでしょうか? そして、それに加えて、もし偽善が自分と神の間に立っているなら、偽善は私たちよりも神の側に近いのです。私たちが他人を批判的になりがちなのは、自分自身を他人の中に見ているからなのです。
主によって時間をかけて、懲らしめられ、恵みとしてその教訓を学び、自分の主張を丸出しにしていた子どもの自分から、相手と全体を考え思いやることのできる大人へと人生を通して成長していく時、子どもが自分のおもちゃや欲しいものを単に手にするのとは全く違う、スケールの大きな主の祝福が訪れるのである。こういう視点と人生観が今の世の中に必要ではないでしょうか。
飯島宗一学長の話
左翼、共産主義 ; 怒りに満ちる。
è 共産党が世の中の中心、共産党員が世の中の中心、つまり自分が中心。だから排他的になり、分裂し、他を攻撃する。価値観は画一的になる。
自由主義、西側的民主主義 ;
è イギリス、フランスで始まった民主主義。成熟した個々を尊重する。無理して白黒つけず皆の個々のハッピーを考え、全体の折り合いをつけていく。良心の自由の尊重。人は一人一人、違うが、違うことをどう受け止めるかも自由。そこに価値観がある。
SNSで怒りと自己主張が闊歩しているが、そうではない。一人一人の良心の自由があるはずで、そこにSNSで土足で入るのは成熟した大人の行いではない。自分が世界の中心ではないことをまず知るべき。そして、子どもではなく、成熟した大人へとなることを良しとし、つまりピーターパンを良しとしないこと、それが信仰の成長でも大切。
ヨブ ; 自分の身に不幸が襲い掛かってきたとき、自分の事を嘆いた。しかし、最後は友人の分もとりなした。次の言葉にヨブの成熟が見られる。
ヨブ 42:1 ヨブは【主】に答えて言った。 42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。 42:3 知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
そして成熟には祝福が伴った。
ヨブ 42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、【主】はヨブの繁栄を元どおりにされた。【主】はヨブの所有物もすべて二倍に増された。
Ⅰコリ 14:20 兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。
エステルも自分の召しを知り、成熟した態度、即ち世界が自分を中心にしていないと理解して、人の為に祈り立ち上がった。そして祝福された。
エス 4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。 4:14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」 4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。 4:16 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」
人の事を常に考えていた成熟したモルデカイは神の力により栄誉を受けた。
エス 6:10 すると、王はハマンに言った。「あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところにすわっているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたの言ったことを一つもたがえてはならない。」 6:11 それで、ハマンは王服と馬を取って来て、モルデカイに着せ、彼を馬に乗せて町の広場に導き、その前で「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである」と叫んだ。 6:12 それからモルデカイは王の門に戻ったが、ハマンは嘆いて、頭をおおい、急いで家に帰った。
自分の事を中心にしていたハマンはこれで恥をかいたばかりか、ついには自分のはかりごとで破滅する。
エス 7:10 こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りはおさまった。
ピリ 3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
Ⅰテサ 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 5:19 御霊を消してはなりません。 5:20 預言をないがしろにしてはいけません。 5:21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
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