2019.6.9 負けることと滅びることは違う
- yoichi

- Jun 15, 2019
- 10 min read
「負けることと滅びることは全く違う。」 鈴木貫太郎
「自分の周りで起きていることで落胆してはいけない。モーセでさえも籠の中から始めたのだ。」
「人生が扉を閉じてしまったら、それを再び開けるのです。それは扉ですから。それが扉の働きなのです。」
盲目であったヘレン・ケラーはこう言いました。「この世で最も気の毒な人とは、目が見えていてもビジョンのない人です。」
ヨハ
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。
恵みとは「心に響く人生に影響があるような態度や行動、忠告を含む叱責」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
今まで行き詰まり人目を避けて暑い日中に井戸に水を汲みに来て隠れるように暮らしていた彼女は、ここで自分の過ちを示され、良い方向に影響を受ける。即ち恵みである。そして人目を避けることをやめ、自身の問題と恥を受け入れ、そこから抜け出す決意をする。
悔い改めとは進む方向が間違えていたことを悟り、180度違う方向に向きを変えて歩むこと。
4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
彼女は避けていた人目の中に足を踏み入れ、神を証言する。そして彼女は人生を取り戻した。マグダラのマリヤだと言われている。
私たちは責任転嫁に満ちた世界に生きています。私たちの多くは自身の間違いや選択の結果の責任を受け入れることに苦心しています。私たちは面目を失いたくないのです。ただ一つの間違いにより、私たちはソーシャルメディアの誰かのブログに書かれることとなるのです。高校時代にあった可能性があるとされた出来事で、何かを取り消されたり選挙で落選したりもするのです。その結果、多くの人が嘘をつき、否定し、心を閉ざし、孤立するのです。真実を語ったり、責任を受け入れるとは感情的に、法律的に、社会的に、戦略的に荷が重すぎるのです。
気づいていようが気づいていまいが、責任転嫁をする世相について。
人は社会、他人、他の事、過去を非難し、あるいは本当の問題を隠すために嘘を述べるのです。人はそうする資格があると誤解しているのです。その人生の絵巻物は、自分がまず成功しなければ、自分が挑戦した全ての痕跡を消し去ろうとするのです。
責任を回避することは、大概は恥から来ます。責任転嫁は恥の転嫁である場合が多いのです。恥を感じ、そして全ての信頼、人気、尊厳、地位あるいは繁栄を失うのではないかと恐れるのです。
ルカ
6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
6:7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
6:8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
6:9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
6:10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
6:11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
パリサイ人も人前で恥をかかされ分別を失い、復讐しようとしている。まさに今の世の中にありそうなことである。
この責任転嫁をし、個人的な責任を受け入れようとしない性癖は、人類の最初からそのまま流れているのです。
創
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
アダムとイブは、神からそうしてはいけないといわれていたある事を二人とも知っていましたが、そのことを行ってしまいました。アダムの反応はどうだったのでしょうか? 彼はイブを非難しました。
なぜ、彼らはお互いに非難し合ったのでしょうか? 恥の故です。その背後に隠れるためのイチジクの葉。私たちはアダムとイブとおなじ行動原理を持っているのです。隠れて、怒鳴り、そして責任転嫁合戦を始めるのです。
目先の利益と衝動に駆られた行動に失敗する時、恥を覚える。
箴 3:35 知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。
恥の抱える問題は、それが罪を生み出すことです。自分が罪を抱えているから、罪悪感を感じるのです。罪とは快適ではないのです。だから、私たちはその罪を被せ、転嫁する誰かや何かを探すのです。
マタイ
15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
15:12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
非難合戦を完璧に行うために私たちは多くの時間を費やしてしまっています。自分がそうではないのに、被害者を演じれば演じるほど、被害者であるという形が私たちのライフスタイルになるのです。それは私たちの世界観に色を付けることとなり、目標に達成できないように私たちを押さえつけていくのです。それは他人をも傷つけていくのです。
そこに恵みとしての忠告があったはずだが、そこに耳を貸さないとやがて皆穴に落ちてしまう。
私たちはどうしたら、恥に由来する罪から逃れられるのでしょうか? 恥に由来する罪は、変えられてしまうか、あるいはそうでなければ伝染していくのです。以下に神の変化による解決があるのです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Iヨハネ 1:9。
十字架の上に置いて、私たちが感じる恥と罪は、私たちからイエスへと転嫁され、他人へとは転嫁されませんでした。そして神とは常に正しいのです。私たちの選択により結果があるかもしれませんが、神はそれが私たちにどのように影響するのかを整理し、そこに数多くの恵みを放り込むのです。ですから、私たちはそれを認め、二度としないようにし、自分が為したことに対して責任を取るのです。そして神は私たちを罪と恥から自由にするのです。私たちは前に進むことができるのです。
Comments