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2019.12.22 礼拝メッセージ ; 本当のクリスマスってなんでしたっけ?

  • Writer: yoichi
    yoichi
  • Dec 22, 2019
  • 18 min read

Guideposts Christmas Treasury誌の1972年版に掲載されていたクリスマスについての実話があります。このお話は最高のプレゼントは天国で梱包されているものだと教えるものです。

Jack Smith氏は所属している教会のリーダーたちに、教会のクリスマス社会奉仕活動の一つにボランティアとしての参加を打診されました。彼は貧しい家庭の二人の男の子をクリスマスイブの買い物に連れていく担当になりました。9歳のトミーと弟の7歳のビリーは、Jackがその子たちを迎えに行った時に非常に喜びました。その子たちは、彼を朝からとても興奮して待っていたのです。何故でしょうか? 彼らの父親は仕事で家にいなかったのですが、彼らには計画がありました。

Jackは彼らに教会から割り当てられた金額である一人4ドルをそれぞれ渡しました。Jackが彼らを連れて行った最初の場所はおもちゃ屋さんでした。トミーとビリーは全く関心がなさそうでした。Jackはいくつかのおもちゃを見せましたが、彼らは単に首を横に振るだけでした。ホビーショップにも連れて行きましたが、同じでした。そしてキャンディー屋さん、スポーツ店と行きましたが同じでした。

トミーとビリーはお互いに小声で話し合い、彼らが持っていた小さな茶色のラッピングペーパーを道目ましたが、何一つとしてこの子達の心にかなうものはありませんでした。ついにJackは尋ねました。「僕たち、次はどこに行きたいかな?」彼らの顔は輝きました。「おじさん、靴屋さんに連れて行ってくれませんか?」トミーはお願いしました。「僕たちは、お父さんが仕事に行けるように靴を一側ほしいんです。」

靴屋の中に入ると、店員が子どもたちに何が欲しいか尋ねました。先ほどの茶色の紙を開いて見せてこう言いました。「この足に合う靴が一足ほしいんです。」ビリーは言いました。彼は茶色の紙にクレヨンで書かれた足の形は、父親の足の形だと説明しました。彼らは、父親が椅子の上で眠っている間に、それを書いたのです。

店員は足型の寸法を図りました。その絵の形に合う靴を見せて、「これでどうだい?」と尋ねました。少年たちは喜びました。大きな笑顔と共に、ビリーとトミーはその靴を喜んで手にしました。しかし、トミーは靴の値段を見ました。「ああ、ダメだ!。この靴は16ドル95セントだ。僕らは8ドルしか持ってない。」

店員は咳ばらいをしてこう言いました。「よろしいでしょうか? それは通常の価格です。しかしラッキーですよ。今日は3ドル98セントでその靴がセールなのです。」彼らの父親の新しい靴を幸せそうに手にして、さらに残ったお金で、トミーとビリーは母親と二人の妹にプレゼントも買いました。彼らは自分の事は少しも考えなかったのです。

クリスマスの次の日、Jack Smithはビリーとトミーの父親が街で仕事探しをしているのを見かけました。彼は新しい靴を履き、目は希望で輝いていました。父親はJackにこう話しかけました。「あなたのような人を気にかける人がいることを、私は神に感謝します。」Jackは答えました。「私はあなたの二人の子どものことを神に感謝します。あの子たちは、私が今までの人生でクリスマスに学んだことよりも、はるかに大きなことを一日で私に教えてくれました。」

これはこれで素晴らしいお話。しかし、舞台はアメリカである。清教徒たちが迫害を逃れて自由を手にした場所での話であり、それを群れとして子孫がおう歌することは当然である。しかし、人は多くの場合、集団で行動すると集団とのぶつかり合いになる。

先日、近所の八百屋で焼き芋を買ったら包み紙が聖教新聞だった。躊躇したが、神の御言葉はサマリヤの井戸の女の話である。イエスは決して集団でアプローチして戦いを巻き起こさなかった。一人で、神を待ち望み求める人に、個人的にアプローチしていた。私たちがすべきことは、何かの集団を作り、すでにこの世にある集団に戦いを挑むことではなく、一人の人として、人に影響を与えていくことではないだろうか?

人は集団で動く。

アメリカ ; 1620年にピューリタン(英国国教会から分離したプロテスタント)が信仰の自由を求めて、メイフラワー号でアメリカに渡り、ニューイングランドを作り上げていく。一方、経済移民もヨーロッパから多く押し寄せてきた。しかし彼らの背景もキリスト教であり、ある意味、何か気まずいことが有るとそれを罪滅ぼし的に覆うようにキリスト教の考えが前面に出てくる。だから時としてアメリカは貪欲になり、時としてキリスト教の面が出たりする。しかし、そこへ1980年代からカトリックを捨てないヒスパニックの流入が始まる。カトリックとはいえ、キリスト教であり大きな祖語は出てこなかったが、2000年頃から、キリスト教に否定的、あるいは生まれてから関係を持ったことのないインド系、中国系、イスラム系が入り、社会は宗教同士の対立を起こし始めていく。そしてその中で、元々キリスト教に関心の薄い一部の白人層は、キリスト教からさらに離れていっている。集団としての宗教の対立は何も生み出さない状態を創り出している。

日本 ; 「安倍やめろ」と叫ぶ人たち。客観的に見て安倍さんを支持する人たちに叫んでも対立と混乱を作り出しているだけでしかない。選挙にも結果は何も影響しない。自分たちが何かを主張してやっている感を作り出しているだけである。

私たちも「偶像礼拝反対」とかを他の宗教の集団に向かって声をあげ、プラカードを掲げたらどうなるだろうか? 教会としては盛り上がるかもしれないが、単に混乱と対立を生み出すだけではないだろうか? イエスは果たして、そのようなことを私たちに勧めたのであろうか?

イエスのなしたことはこうである。集団としての戦いはしなかったのである。

マタ 27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」 27:14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

ヨハ 19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」 19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」

そして知恵も使っている。

ルカ 20:1 イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、 20:2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」 20:3 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。 20:4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」 20:5 すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。 20:6 しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」 20:7 そこで、「どこからか知りません」と答えた。 20:8 するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。

権威というものを前提に話すと、集団としての対立が生まれるだけである。

しかし個人的な関係と会話はしている。集団として、何かに対立はしていない。

ヨハ 4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。 4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである── 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」 4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。 4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。 4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」 4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。 4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。 4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」 4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

ヨハ 4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

スカルとは、「酔っぱらった」という意味であり、恐らくは住民たちの酔っぱらいぶりからつけられた名前と思われる。場所はシロから15km、エルサレムから50kmほどの場所。

サマリアの首都である。

イザ 28:1 ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。 28:2 見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。 28:3 エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、 28:4 肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、それを手に取って、すぐのみこんでしまう。 28:5 その日、万軍の【主】は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、 28:6 さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃して来る者を城門で追い返す者にとって、力となられる。 28:7 しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。 28:8 どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。

 この場所はアブラハムが最初に祭壇を築いた場所、シェケムである。主が子孫に与えると約束した場所である。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」 12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。 12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。 12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。 12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。

そしてヤコブがエサウと再会後に、買って移り住んだ場所でもある。

33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。 33:17 ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。 33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。 33:19 そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。 33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。

さらにはヤコブ即ちイスラエルがヨセフに与えると約束した場所でもある。

48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。 48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」

そしてヨセフの骨が埋葬された地であり、今でもヨセフの墓が残っており、ユダヤ教徒の巡礼地となっている。私たちがイスラエルに言ったときは、同地へのユダヤ人巡礼団へパレスチナ人が投石したため、近づくことができなかった。

ヨシ 24:32 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。

ヨハ4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

この聖句の賜物とは、

δωρεά dōrea do-reh-ah' From G1435; a gratuity:—gift

 無償の贈り物、心づけ、チップ、贈り物

つまり、神からの無償の贈り物を知っていたら、先に与えようとしていたと言っている。

マタ 4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

そして山上の垂訓を述べている。

マタ 5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。 5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

そして山上の垂訓に続いてこう述べている。

マタ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

塩とはユダヤ教で神に捧げるための大切な役割をするものであった。

レビ 2:13 あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。

私たちは神への捧げものに必ず添えられる契約の塩になって、神への捧げもの、祈りを捧げていかなければならない。私たちの塩の添えられていない祈りは、録音されて繰り返す祈りと変わらない。

或いは次の逸話もある。

マタ 15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」 15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。 15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。 15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。 15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。 15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

ここでイエスが15:24で「イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と述べているが、当時のイスラエルではユダヤ人と、それ以外の人々、つまり異邦人とは完全に分離されており、イエスがユダヤ人以外に伝道すると活動が破綻してしまう状態にあった。しかし、求めるものには与えたのである。そしてここで、決して相手の事を非難はしていない。

 そしてまた、Adam Clark氏はこうも解説している。「一部の伝道者たちも反省すべきである。ある伝道者たちは、誰か救われそうな人がいると耳にすると先を争ってそこに駆け付け、自分の教会の群れに加えようとするが、決して外の荒野に出て苦労して羊を集めようとする姿勢を見せない。空席だらけの教会の席に責任を感じることもなく、他人に労苦を任せて、牧師室の中の責任だけを考えている。神から使わされたのでなければ、人々に益することはできない。

 しかし、世の中は十分に広く、他の牧師と信徒獲得のための競争しなくてもまだ手付かずのところはたくさんある。世界中どこにでも、罪びとはおり、神を心から求めている人々はたくさんいる。神はイスラエルの民の失われた子羊だけではなく、世界中に救いの手を伸ばしているのである。そこに神の思いへの真の情熱をもって語るなら、多くの人火度は救われるはずである。例え、そこに知識の不足で間違い、勘違い、混同した教えを少しばかり含んで教えても、その不足した部分をも神は祝福なさり、人々は救われる。しかし、神の真の情熱の無いニセの教えをするなら、そこには神の祝福も奇跡も起こることはない。

私たちに大切なのは、求める人に出会ったときに、神への熱心さをもって、できる限りのことを伝える事であり、少しくらい間違えてその時に語っていても、神はそこに介在し祝福する。決して相手を非難したり、集団として攻撃したり、集団として何が正しいかとかを主張することではない。

ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。 3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 3:21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

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