2020.1.5 礼拝 ; その人の過去がどのようなものであろうが、その未来には穢れやキズはない。
- yoichi
- Jan 5, 2020
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Updated: May 1, 2020
村人たちが皆、雨乞いをすることを決定した。彼らの祈りの日、全ての人々は集まったが、一人の少年だけが傘を持ってきた。
中々、私たちは口先で祈ると言っても、本当に信じるのは難しい。
John R. Rice
「その人の過去がどのようなものであろうが、その未来には穢れやキズはない。」
Ⅱコリ 5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
ユダ 1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
神の愛の内に自分自身を保ち ; 自分ができる事は神の愛の内に自分を保つことだけである
憐れみをまちのぞみなさい ; 神の一方的な憐れみによって救われるのであり、決して自分が何かをしたとか、行ったとか、社会的地位で救われるものではない。
私たちができるのは、自分の意志で神の愛の内に留まることまで。
その前段として裁きにいてはこう教えられている。
これは当時のエノク書の中からの引用である。
ユダ 1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。 1:15 すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」 1:16 彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。 1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。 1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」
しかし、次のようにも教えられている。
Ⅰテモ 4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。 4:2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、 4:3 結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。 4:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 4:5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。
まさに人が背伸びして取ってつけて考えたような偽の教え、食物や結婚の制限禁止や、関係の断絶で傷つく人も多い。
世の中の上には神の壮大な知恵があり、神の計画があり、それを信じて委ねていくとき、神を高めてあがめることになる。
Ⅰコリ 1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
陶器師は陶器を作る時に、計画をもって手順を追って、最初に練り、こねあげ、形を作り、余計なところを落とし、燃える炎の窯で焼いて作る。
イザ 29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」 29:15 ああ。【主】に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。 29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。
Ⅰコリ 2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
この世の知恵 ; ユダヤ人社会の知恵、即ち聖書をまげて解釈し、イエスを処刑しようと画策したこと。
支配者たちの知恵 ; ギリシア/ローマ社会の支配階級の知恵、
成人の間で知恵を語ります ; 神はユダヤ人の画策、即ち「この世の知恵」と支配者たちの知恵を用いて、イエスを十字架にかけて私たちすべてを救おうとした遠大な知恵を語るということ。決して何かの屁理屈ではない。
「ユダヤ人はしるしをもとめ、」;ユダヤ人は惑わされないように用心深く、中々信じない民族であり、彼らを信じさせるにはしるしが必要であった。だから福音書でもイエスは「しるし」を何度も用いたり、議論している。
マタ12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
ヨハ 6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
一方、ギリシア人、ローマ人は知恵を美徳とし、それを求めていた。
そう理解すると次の聖句の意味も分かる。
Ⅰコリ 1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。 1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
日本人には「しるし」なのか? 知恵なのか?
Ⅰコリ 3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」
次の聖句の知恵は悪や罪を隠そうとする悪だくみを指す。
Ⅰコリ 3:18 だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。 3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」
3:19説は次の引用。
ヨブ 5:12 神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。 5:13 神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。
ここで述べていることは、人が悪知恵をめぐらして罪を隠しても、結局は陶器師である神の手の中に収められ、私たちは形作られていく、ということである。
イザ 64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。 64:7 しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。 64:8 しかし、【主】よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
エレ 18:1 【主】からエレミヤにあったみことばは、こうである。 18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」 18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。 18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。 18:5 それから、私に次のような【主】のことばがあった。 18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──【主】の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
一人一人の陶器師として神は働き、神は全てを通して人を救う。
ロマ 11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。 11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 11:35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。 11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
Ⅰペテ 1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
私たちの人生には苦難はつきものである。そして因果応報ではなく、その苦難は何も悪いことではなく、神が私たちを愛しているがゆえにの事であったりもする。私たちが信仰を高めていくこと、それが神の願いである。
黙 3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
生まれる時にエサウと争い、神と争い祝福を求めて争ったヤコブも、長い苦難の人生を乗り越え、パロの前に導かれたヤコブもこう述べている。
創 47:8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」 47:9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
まさに素晴らしい言葉である。全ての苦難を主と共に乗り越えてきたことがにじみ出るへりくだった言葉である。
哀歌3:22 私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。 3:24 【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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