責任のセンスと敏感さ
- Ed Delph

- Jun 1, 2019
- 5 min read
私たちは責任転嫁に満ちた世界に生きています。私たちの多くは自身の間違いや選択の結果の責任を受け入れることに苦心しています。私たちは面目を失いたくないのです。ただ一つの間違いにより、私たちはYelpやTrip Advisor、あるいはソーシャルメディアの誰かのブログに書かれることとなるのです。高校時代にあった可能性があるとされた出来事で、奨学金のーを取り消されたり選挙で落選したりもするのです。その結果、多くの人が嘘をつき、否定し、心を閉ざし、孤立するのです。真実を語ったり、責任を受け入れるとは彼らには荷が重すぎるのです。感情的に、法律的に、社会的に、戦略的に。
私が個人的な責任を負うことについて描いた最高のものの一つは作家のJohn Maxwellの著書「The Leader Within You」です。
ドッグフード会社のセールス担当役員が、会社の新しい宣伝プログラムについて、セールス部門の社員にどのような点が良いかを尋ねた。「素晴らしい! ビジネス界で最高のものです。」彼らは答えた。「私たちの新しいラベルとパッケージは良いかね?」「素晴らしい! ビジネス界で最高のものです。」彼らは答えた。「私たちの新しいセールス部隊はとうかね?」彼らはセールス部隊である。彼らは、自分たちは非常に良いと答えた。
「OK、それでは」役員は言った。「つまり私たちは最高のラベル、最高の宣伝プログラムをもって最高のセールス部隊により製品を売っているわけだ。私たちがドッグフードビジネスにおいて、何故、17番目に位置しているか教えていただけるかね?」ついに誰かが言った。「それは騒々しい犬の問題です。犬はこれらを食べないのです。」
もちろん、彼らは正に被害者です。彼ら自身には何も問題もないのに、ひどいことが彼らの上に起きたのです。私たちは誰か他人が起こした事件や事故を受け取ることになったり、暴力を受けたりするのです。それは私たちの失敗ではないのです。
今回のお話では、気づいていようが気づいていまいが、責任転嫁をする人について話しています。彼らは社会、他人、他の事、過去を非難し、あるいは本当の問題を隠すために嘘を述べるのです。彼らはそうする資格があると誤解しているのです。彼らの人生の絵巻は、自分がまず成功しなければ、自分が挑戦した全ての痕跡を消し去ろうとするのです。
責任を回避することは、大概は恥から来ます。責任転嫁は恥の転嫁である場合が多いのです。恥を感じ、そして全ての信頼、人気、尊厳、地位あるいは繁栄を失うのではないかと恐れるのです。
責任転嫁をし、個人的な責任を受け入れようとしない性癖は、人類の最初からそのまま流れているのです。アダムとイブは、神からそうしてはいけないといわれていたある事を二人とも知っていましたが、そのことを行ってしまいました。アダムの反応はどうだったのでしょうか? 彼はイブを非難しました。この先の話をご存知でしょう。アダムはイブを非難し、イブは蛇を非難し、蛇は立つ瀬どころか、立つべき足がなかったのです。
なぜ、彼らはお互いに非難し合ったのでしょうか? 恥の故です。すぐに彼らはメイシーの店に行き、その背後に隠れるためのイチジクの葉を買ったのです。そして彼らは自身の確固たるものを失い、秘密の人生を生き始めたのです。彼ら、さらには私たちにとって、その代償がどれほどの高いものになるかを脇において、他人の誰かにその恥を見てほしくなかったのです。お分かりでしょうか? 私たちはアダムとイブとおなじ行動原理を持っているのです。隠れて、怒鳴り、そして責任転嫁合戦を始めるのです。
恥の抱える問題は、それが罪を生み出すことです。自分が罪を抱えているから、罪悪感を感じるのです。罪とは快適ではないのです。だから、私たちはその罪を被せ、転嫁する誰かや何かを探すのです。
非難合戦を完璧に行うために私たちは多くの時間を費やしてしまっています。それは私たちの時間のモルヒネのようなものです。「それは騒々しい犬の問題です。犬はこれらを食べないのです。」否定(デナイアル)はエジプトの川ではないのです。私たちの中にあるものです! 自分がそうではないのに、被害者を演じれば演じるほど、被害者であるという形が私たちのライフスタイルになるのです。それは私たちの世界観に色を付けることとなり、目標に達成できないように私たちを押さえつけていくのです。それは他人をも傷つけていくのです。
私たちはどうしたら、恥に由来する罪から逃れられるのでょうか? 恥に由来する罪は、変えられてしまうか、あるいはそうでなければ伝染していくのです。以下に神の変化による解決があるのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Iヨハネ 1:9。
十字架の上に置いて、私たちが感じる恥と罪は、私たちからイエスへと転嫁され、他人へとは転嫁されませんでした。そして神とは常に正しいのです。私たちの選択により結果があるかもしれませんが、神はそれが私たちにどのように影響するのかを整理し、そこに数多くの恵みを放り込むのです。ですから、私たちはそれを認め、二度としないようにし、自分が為したことに対して責任を取るのです。そして神は私たちを罪と恥から自由にするのです。私たちは前に進むことができるのです。
このことを考えてください。決して解決されることのない、永久に増大していく罪と共に生き、、他人を非難するイチジクの葉の陰に隠れ、そして私たちがしたことで他人が苦しむ結末を見つめるよりは、自分の過ちに対する責任を受け入れた方が良いのです。
ある人はこう言っています。「自分のトラブルの大半に責任のある人のズボンを蹴とばす事が出来たなら、一か月は座れなくなるさ。」おっと! 私はそんな感じです。そしてそれが責任の感覚であり、敏感さなのです。
エド・デルフ/Ed Delph June 3, 2019 CCC
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