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話すことについて我々に語る37の釘

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Dec 30, 2020
  • 5 min read

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次の作者不詳の話を読んでみてください。楽しんで身に当てはめてみましょう。


短気な少年がいた。彼の父親は彼に釘の入った袋を渡し、彼が短気になって癇癪を起こすたびに家の裏の柵の木にその釘を打つように言った。最初の日、少年は37本の釘を柵に打ち付けた。そして釘の本数は徐々に減っていった。彼は短気になって癇癪を起こさないように我慢する方が、釘を打ちに行くよりも簡単なことに気づいたのだ。


ついにその少年が短気になって癇癪を起さなかった日が来た。彼は父親にその話をした。彼の父親は、その少年に短気になって癇癪を起さなかった日には一本ずつ釘を抜くようにといった。月日は過ぎ、やがてその少年がすべての釘を抜いてしまった日が来た。


父親は少年の手をとり、柵のところへと連れて行った。彼は言った。「お前はよくやったが、しかし、柵の穴をみてごらん。柵の木はもう元には戻らないんだ。怒りを持って何かを言ったとき、この柵の木のように傷跡を相手に残していたんだ。何度、この木に向かってごめんなさいと言っても、傷はそこに残っているんだ。


これは素晴らしいイラストレーションです。皆さんは誰か他人に何かを言ってしまい、その後、口から出た言葉を心の中で追いかけようとしたことはありませんか? 私は確かにあります。それは言葉がまるでスローモーションのように出ていくようなものです。私は考えていました。「言葉よ、戻って来い。戻ってこい。」しかし、これらの言葉が我々の口から一度出てしまうと、もう二度と取り戻せないのです。言葉によるキズは、肉体によるキズと同様、相手にダメージを与えるのです。その結果は、じぶんと 他人にとって破壊的です。


この問題をコントロールするいくつかのアドバイスがあります。もし自分が何を考えているか監視できれば、何を言うかを監視する必要はないのです。時として、私たちはその意味したいことを言わなければならないのですが、それを口に出したときに必ずしも正しく意味するわけではないのです。よくぞ言った、エド!


私たちの小さな舌は良いものとそれほど良くないものに同時に用いられることができます。言葉は癒すこともできると傷つけることもできるのであり、助けることもつまづかせることもでき、立て上げることも引き裂き破壊することもでき、祝福することも呪うこともでき、真実を語ることも嘘を語ることもでき、愛することも憎むこともでき、築いてきた評判を破綻させることも可能性を解き放つこともできるのです。言葉は私たち自身と他人の人生を軌道に乗せることができるのであり、ポジティブにもネガティブにも作用するのです。


先に述べたストーリーが描いていることは、時間や謝罪が釘を抜き取ることはできるものの、傷は依然としてそこに残ることを示唆するものなのです。私たちは傷つける言葉を用いる加害者にもなり得るとともに、傷つける言葉の被害者にもなり得るのです。同様に、より良い形で言われた言葉によって私たちは他人を建て上げ、他人により建て上げられたりしているのです。なぜなら私たちは前に進むように勧められるよりも、感情を刺激されることに抵抗するからです。


もし私たちが立腹したことにより柵の木に打ち付けた釘を抜き、その結果できてしまった穴も修復するための時間を過ごすようなことになりたくないなら、真実を愛を持って語り、飾り立てたり乱暴に話すことはないようにしましょう。


死の言葉よりも生きる言葉を語るパワーを学んだフットボールコーチの素晴らしい例があります。そのコーチは南カリフォルニア大学のJohn McKayです。彼の息子は南カリフォルニア大学の名プレーヤーでした。自分の息子の成績をどれだけ誇りに思うかと、あるインタビューの中でJohn McKayが尋ねられた時、彼はこう答えました。「ええ、私はJohn Jr.が素晴らしいシーズンを今年、過ごしたことを喜ばしく思います。彼は素晴らしい成績を残し、彼を誇りに思います。しかし、私は彼が全くフットボールをしていなくても、同じように誇りに思ったと思います。」


言い換えるなら、彼の息子はもし次のシーズンに失敗し周囲から失望されたとしても父親からの敬意は何も失われることがなかったのです。父親の心の中の彼の立場は確かなものであり、その成績とは何も結びついていないのです。この結果、McKayは、もし息子が悪い成績だったとしても無理強いしたり責めたりすることはなかったのです。それは愛、責務、言葉で表した深い気持ちの一種であり、私たちが緊迫した場面や微妙な場面に直面した時、命を語ることのできるものなのです。


残念ながら、今日の世の中では、多くの目立つリーダーたちが祝福するよりも呪い、立て上げるよりも引き裂き打ち壊す言葉を用いているように見えます。自分の外側に起きていることが自分の内側に入ってこないようにしましょう。何故でしょうか? 私たちが見ている見本が、自分たちがなる手本になるからです。それが自分の身に起こらないようにしましょう。皆さんには今回のお話を読んでいただきました。彼らの見本になってはいかがでしょうか? より良い見本として手本になりましょう。


今週のお話をまとめ上げるにふさわしい聖書の言葉を考えてみましょう。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」エペソ4:31。


何故、このお話を今日書いたのでしょうか? それは簡単です。人間と魚はとても似ているからです。両方とも、口を開けるとトラブルに巻き込まれるからです。ですから、37本の釘の逸話は私たちに話すことについて教訓を与えているのです。


エド・デルフ/Ed Delph November 30, 2020, CCC



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