top of page

芋虫の行列から学ぶ人生訓

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Feb 9, 2020
  • 6 min read

ree

ニュージーランドで出版されているデボーション本であるWord for Todayを読んでいる時、ちょっと心に引っかかる実際の実験の話を目にしました。ちょっと、この話が皆さんの心に引っかかるか、少なくとも何かを考えさせるのか見てみませんか? この話を読む多くの人に当てはまるかもしれません。

私のお話は昔の聖書の言葉から始まります。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。」(申命記2:3) ユダヤの国はシナイ山の周りを40年ほど回っていました。約束の地がほんの数キロ先にありながら、彼らはその山の周りをぐるぐる回り続けていたのです。神はついに十分だと言いました。「もう十分だ。進んでいってよろしい。」

このことは何か身に覚えが有りませんか? 神がその民を約束の地に導き入れたいと思う時、多くの人々はぐるぐると同じところを回り続けるのです。それはストレス以外、何の得るものもない結末と呼ばれるものです。そして非難の矛先を目に見える方向へと変え、ある被害者がそこに座らせられるのです。もしそれを客観的に見つめるなら、非難の矛先を変えて、その被害者をそこに座らせることは、もう40年、山の周りを単に回ることになるだけになることを知るでしょう。

上に述べたことについての実際の実験の事が以下にあります。読んでみてください。

「ある生物学者が『芋虫の行列』という実験をしました。彼は芋虫を、花を生けている花瓶のふちに並べ、前の芋虫の後ろに次の芋虫の頭を置いて輪のように並べ、その列が途切れないように並べました。その小さな生き物は、花瓶のふちを一週間歩き続け、ついには疲れ果て飢えて死んでしまいました。その間、一度も、一匹の芋虫さえも、その列から離れて生けている花のところに行き、食べることもしませんでした。食べ物は目の前にありながら、彼らの集団についていくという習性の方が食べて生きるという衝動よりも強かったのです。」

正にそれと同じことが、イスラエルの全世代の上に起きていました。彼らは荒野の中の輪をぐるぐると40年間回り続け、しかしほんの数キロ先には約束の地が有ったのです。自分自身、友達、自分のキャリア、習慣、態度、自分に対する認識、人間関係にそれが起きるとは考えないでください。

真実は、私たちは時としてそこから離れられなくなり、本当にそれを手放すことができなくなります。それが人生というものです。しかし、自分を自由にするために自分の内側に深く踏み込んで入る必要がある時に、その人生とうものが起きるのです。勝利や多くのものが、ほんの少しの選択とほんの目と鼻の先の距離にありながらも、私たちは自分自身が作ってきた轍の中に居続けようとし、同じことを繰り返しながらも、しかし違った結果を期待するのです。

自分が何年も何かぐるぐると回り続けている時、問いかけるべき三つの質問があります。第一に、これは自分自身が作った轍であろうか? 自分自身で作った轍は私たち自身を快適にする傾向があります。第二に、私は誰の後をついて行っているのか? どこにも向かって行かない人々の群れに何も考えずに付いて行くことに代えて、自分が行きたいところへと連れて行ってくれるより良い声を探し求めるのです。第三に、自分はどこに向かっているのか? 目的の発見は人生の発見なのです。

第一の問いについて考えてみましょう。この轍は自分のつけた轍でしょうか? イスラエル人のケースにおいては、それは自分自身の轍でした。神が彼らを約束の地の端へと導く何年も前、彼らはただつぶやき、不平を言うだけの民でした。これが彼らを自分の作った山の周りの轍を追って、その後の40年間も歩き回らなければならなくなる原因となったのです。

どうしてその民が馬鹿げたことをしたのでしょうか? 彼らは、まだ見たことがない約束の地について、良く知らなかったからです。彼らは、自分たちはそこでみじめであったにもかかわらず、あの古い土地に帰りたがったのです。彼らはそれにしがみつきたがったのです。彼らは手放さず、神にその人生を委ねようともしませんでした。神にはビジョンがありましたが、彼らには、先ほどの芋虫のように快適な場所があったのです。このことを考えてみましょう。イスラエルの民は、先ほどの芋虫のように、荒野で死に絶えてしまったのです。

芋虫にならないでください。柱になりましょう。轍を抜け出すには、自分が何が何のためで、何になりえるのかを手にしなければならないのです。責任を持ち、多くの場合において、何になりえるのか、把握するのです。神にあって、私にも皆さんにもより良い人生があるのです。

第二に、誰に私はついて行っているのでしょうか? もしかしたら、皆さんは輪の中に響き続けている声について行っており、彼ら自身のスタイルで作り上げた轍に沿って周りをぐるぐる歩き続け、自分を彼らと一緒にしようとしているかもしれません。みじめさは、仲間を呼び寄せるのであり、特に人々が自分の轍を価値あるものとし、正当化するには仲間が必要なのです。

多くの人々は何かの声、何かの哲学、何かの運動、何かのみじめなセルフイメージ、何かの罪の意識、自分の中の10代の思いによる何かのライフスタイルに付き従い始めており、そこから抜け出ようとはしないのです。40年後に、その山の周りを何千回も回り終え、自分の若さを無駄にした後、かれらはいまだに同じ轍に居るのです。思い出してください。これは厳しいことに聞こえますが、もし皆さんが4人の敗者に付き従っているなら、自分は5人目の敗者になりかけているのです。先ほどの芋虫に聞いてみればわかります。あ、でも彼らは死んでしまったのですね。

最後の質問は、自分はどこに向かっているのかです。自分の人生の目的やビジョンは何でしょうか? 他人が持ち合わせず、自分だけが持ってるものは何でしようか? 皆さんの賜物と能力は何でしょうか? 自分の情熱は何でしょうか? それを見つけるなら、人生を見つけるのです。ビジョンの無いところに方向は存在しないのです。目的の無いものになっていくのです。

ですから、自分の山の裾野を十分長い間、回り続けたなら、そこから一歩踏み出し、ステップアップし、そして神が皆さんに用意している「より大きく、より良く、より素晴らしい」ものへと足を踏み入れましょう。Jimmy Buffet氏のようになってはいけないのです。私は、彼が自分の女性問題が「私自身の馬鹿げた失敗」と認めたことについては敬意を表します。私は彼が「楽園Margaritavilleで再び洗い流す」ことをもうやめるべきだとおすすめします。決意とは、種の形の時に行うブレークスルーなのです。

エド・デルフ/Ed Delph February 10, 2020 CCC

Ed Delph/NATIONStrategy

7145 W. Mariposa Grande Ln.

Peoria, AZ 85383 USA

623-363-9961 * Fax 623-537-1446

www.NATIONStrategy.com

"People Who Empower People To Transform Communities'

Comments


© 2019 Home Church. Proudly created with Wix.com

Join Our Mailing List
bottom of page