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自分の人生の打率を上げる

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Jul 17, 2021
  • 6 min read

何年か前、Bob Mumfordという素晴らしい先生がこの思いを書き留めました。彼は言いました。「もし自分の打率を上げたければ、ベースプレートの上を通る全てのボールにバットを振ることを止めなければならない。」野球選手というものは完ぺきな投球を見つめながら、良い結果の為にバットを振るのです。自分の人生にも同じやり方を用いましょう。今日、多くの人は全ての方角にバットを振っています。しかし皆、作戦も立てずにバットを振っているのです。もし皆さんが、球場全体をノックアウトするためにあなたに放られたボールだけにバットを振るなら、殿堂入りです。


皆さんの人生の打率を上げる作戦ついて考えてみましょう。私たちに継続的に放られている玉の一つは、誘い球です。何故でしょうか? 私たちは誘い球に必ずバットを振り、三振を取られるのです。次のお話を考えてみましょう。


ある少年が父親から泳ぎに行ってはいけないと言われた。彼の父親が息子が泳いでいるところを見つけた時、少年は言った。「そうするつもりはなかったんだ」「ではどうして水着を着ているんだ?」問いただされた。「誘惑にかられたときに備えて持っていたんだ。」が答えだった。人がその理性の声に耳を傾けない時、他人からのアドバイスなどは聞かないのが普通なのです。

皆さんに告白させてください。私は行いについて書くのが好きだとは絶対に言いません。多くの場合、牧師や教会が語るのは行動です。誤解しないでください。行動は重要です。何故? 「私たちを試み(誘惑)に会わせないで」に続く言葉は「悪からお救いください。」(マタイ6:13)だからです。問題は誘惑ではないのです。私たちは誰もが誘惑に会います。誘惑に屈することは、実るべき結果を衰弱させることなのです。主の祈りにおける「私たちを試み(誘惑)に会わせないで」の言葉は、神が私たちを誘惑へと導くことではありません。それは全く反対の意味なのです。イエスはこう言っているのです。「主よ、今日も私に賢い選択をさせてください。誘惑に負けるのではなく、私に誘惑を乗り越える力をください。」例えていうなら、今日私に水着をもっていかせないようにしてくださいということなのです。場合によっては、私は自分に害を受け、他人にも害を与えてしまうのです。


行動と私たちが自分をどう律するかは基本です。それが私たちの目的地を決めるのです。問題は教会やその他の場で、私たちがどう他人の行動について述べるかなのです。多くの場合、それは非難となるのであり、解放にはならないのです。それは成長を促すのではなく、律法で線を引くことなのです。それは強盗を牢に閉じ込め、もはやその中では強盗はできないと言い張るようなものなのです。そこに基本的な成長がなければ、強盗はその中で強盗であり続けるのです。単に彼の中にまだ持っているものを行動に移すことが出来ないだけなのです。彼は強盗を襲うことは不法だと知っていますが、なぜかは知らないのです。


律法は「汝しなければならないと汝してはならない」です。成長(恵み)は「汝しなければならないと汝してはならない」の理由に、あっそうかと気づくときに起きるのです。それは何かをしないのがなぜ賢く、他のことをするのがなぜ賢いかを見分けることなのです。それは何の選択も与えず、励ましもせずに、誰かに本を投げつけて、「自分で行動しなさい」と叫ぶことではないのです。Randy Helm牧師の馬の訓練のヒントを考えてみましょう。「良い馬の訓練士は馬を変えられる。偉大な馬の訓練士は、馬に変わりたいと思わせる。」これは人に対しても同じなのです。

私たちが誘惑に陥らない選択をするように、より励ましになり、より解放する聖書的なアプローチをお話させてください。自分の人生に疑わしい問題がある時、その後ろに心の中でクエスチョンマークがついている時、四つのEのテストをしてみるのです。もし自分の問題がその4つのテストを追加するなら、それはもはや問題ではないのです。


次が自分が考えてみるべき四つのテストです。神は私たちに四つのEのテストをある理由をもって与えています。それは大切です! それは神が力を与えた方法であり、律法に支配された方法ではないのであり、行動を内側から外川に向けて帰るのであり、外側から内側を変えるものではないのです。

Iコリント6:12の有用性の試験。それは良いものかもしれないが、それをすることは自分に良いことか? 聖書はこう言っています。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。」


有用性とは何かや誰かがある状況では適切であるが、それは一般的に自分勝手な理由で行うことを意味します。それは政治家がその選挙の宣伝活動の為に、誰かに与えた地位のようなものです。それは合法です。しかし一般的に、その人はその地位に最高な人物ではないのです。ですから、自分の誘惑が最善のことではなく、対外的或いは政治的なことの場合、有用性のテストに合格しないのです。


Iコリント6:12の隷属性の試験。この選択は私を奴隷にするか? これは繰り返す中毒になるか? これは他の人々も繰り返す中毒にしてしまうか? 聖書はこう言っています。「私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」


忘れないでください。皆さんは頭になるべきものであり、尻尾になるべきものではないのです。何かが自分を奴隷にする可能性があるなら、その領域に弱さがあるなら、賢くありましょう。自分にはふさわしくないのです。全ての選択において自分で問うべきことは「これは賢いか?」であり「これは合法?」ではないのです。それは合法的な行動を選ぶよりも、行動からの自由を選ぶべきなのです。


Iコリント10:23の啓発のテストです。このことは自分を建て上げ、或いは他人を建て上げるか、自分を破壊し他人も引き裂くか?です。啓発するという言葉の意味は、誰かを道徳的、信仰的、知的に高め啓発するように導くことなのです。聖書はこう言っています。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」自分に問いましょう。「私が考えていることは、私、家族、友人、周辺の人々の魂の中に残り、魂の中で繁栄を導くか?」そうでなければ、それをしないでください。それは啓発のテストに不合格なのです。

手本のテストがIコリント8:13にあります。自分がしていることは他人のつまづきになるでしょうか?自分が解放しようとしているその領域において弱い人の悪い手本になるでしょうか? 自分がしていることは人々に魂において反映した人の好い見本を与えるでしょうか? 忘れないでください。自分がしていることは他人に良い方にも悪い方にも影響を与えるのです。偉大な手本の一つになるようにしましょう。


いかがでしょう? クリスチャンたち。私たちは聖書の銃弾を人々に浴びせる必要はないのです。四つのEのテストで日々を生き、彼らに自分を与え、自分であり、キリストが自分の上にあるようにするのです。もしあなたがその水着を捨てるなら、場外ホームランを打てるのです。

エド・デルフ/Ed Delph July 19, 2021 CCC


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