top of page

自分にとても高くつくもの

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Nov 30, 2019
  • 5 min read


ree


51年間Bob Edensは盲目であった。彼は何も見えませんでした。彼の世界は音と匂いだけのブラックホールだったのです。彼はこの感覚を五十年間の間、持ち続けていました。そして見えるようになったのです。

ある優秀な外科医が高度な手術を行い、人生で初めて、Bob Edensは視野を手にしました。彼はそれを見て圧倒されました。「私は今まで黄色がこんなに、黄色だったとは夢にも思わなかった。」彼は

叫びました。「言葉にならない。黄色は素晴らしい。でも私の好きな色は赤だ。私は赤の色が信じられない。今や月の形も見える。私は今やくっきりとジェット機が飛行機雲を残して空を横切って行くのも見える。そしてもちろん、日の出と日没も。夜には空に星が見え、瞬く光も見える。皆さんにはこのもの全てがどれだけ素晴らしいかわからないでしょう。」

Max Lucadoはその著書God Came Near においてBob Edensのコメントについて我々に解き明かしています。

「彼は正しい。人生を通して視野を持っていた私たちには、与えられた視野がどんなに素晴らしいか知りようもない。しかし、Bob Edensだけが何かを見ることなく、そのものの傍らに居た訳ではない。何かについて盲目であることに苦しんでいない人は誰もいない。驚くべきことではないでしょうか? 私たちは人生を通して何かの傍らにいながら、それに焦点を合わせる時間を持たない限り、それは私たちの人生の一部にはならないのです。どうにかして私たちの人生のブラインドを上げない限り、私たちの世界は暗闇の洞窟とおなじなのです。

こう考えてみましょう。単に千の虹を見たからと言ってその人は素晴らしい虹を見たわけではないのです。人は庭の傍らに生活しながら、花の咲き誇るのに気づかないこともあるのです。ある男の人は一人の女性と人生を共に過ごしながらも、その魂を理解しようと立ち止まらないこともあり得るのです。

イエス。彼に会ったことはありますか? 最初に会った時の反応は人どれぞれです。「我が主、我が神!」トマスはそう叫びました。「私は主に会いました。」マグダラのマリアは叫びました。「私たちは彼の栄光を見た」ヨハネはそう告白しています。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」二人のエマオに向かっていた弟子たちは喜びました。しかしペテロは最も素晴らしい言い方をしました。「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」

Bob Edenのように視力を取り戻すことは素晴らしいことです。見えていながら見えていない人々がいるのです。それがMax Lucadoが語っていたことです。時として私たちは見ていないのに見ることがあるものなのです。私たちは認識しながら認めないのです。認識は知識です。認めることは理解することです。認めることとは見えることであり、理解することであり、見える形での変化に至ることであり、そして私たちは生きるのです。

ここに私の懸念があります。個人的な形で話させてください。自分の人生には見えていないものがあるかも知れず、それは自分に非常に高い代償を求めるものなのです。

私たちが最初に見えていた姿よりも、恐らくはより真実で深い何かが見えた例えがあります。DORMITORYと言う言葉を見てみましょう。同じ文字を使って並べ替えるとDIRTY ROOMです。これは預言的ですよね?PRESBYTERIANはBEST IN PRAYER。英国国教会系(PRESBYTERIAN)の方は気にいるでしょう。ASTRONOMER(天文学者)はMOON STARER(月を見つめる者)。THE EYESは違ったレンズで見るとTHEY SEE。MORSE CODE(モールス信号)はHERE COME DOTS(点が来たぞ)。

SLOT MACHINES(スロットマシーン)を違う角度で見るとCASH LOST IN ME(金を無くした)。ELECTION RESULTS(選挙結果)を違う角度で見るとLIES LETS RECOUNT(嘘だ、もう一度数えよう)。SNOOZE ALARMSはALAS NO MORE Z’S。DECIMAL POINT(小数点)はIM A DOT IN PLACE。

最後にELEVEN PLUS TWOは違う角度で見るとTWELVE PLUS ONE。

最初のお話のBobのように盲目である事は一つの事です。目に見えた時に、本質を見抜く事は、Bobの話のように別のことです。時として物事は、まるで幻のように、実は見えた通りでは無いのです。ある時には見えている通りだったりするのです。ですから私たちは、頭を砂の中に隠して自分が受け入れたく無いことを無視して現実逃避し、祈るのです。

クリスマスの日に同じことがイエスに起きました。ある人は彼を見ましたが、他の人には見えませんでした。ローマの側の王であるヘロデには彼が見えませんでした。エルサレムも彼が見えませんでした。宗教家たちも彼が見えませんでした。しかし彼はずっとそこにいたのです。羊飼いは彼を見ました。賢者達も彼を見ました。天使も彼を見ました。時として見る事は信じる事なのです。ある時には信じることが見ることなのです。

多くの人は福音の良い知らせを聞いたことがありません。どうやって私たちはそれを知ったのでしょうか?多くの人は神とはどのような方であり、神がその人々をどう思っているのかを知らないのです。

彼らは、神は彼らに怒り、鞭を持った老人のようであり、彼らに襲いかかろうとしていると思っているのです。真実は神は彼らにご執心なのです。

真実は神は良きものであると言うことです。神は自身を示されるためにイエスを送りました。イエスを通して神はこう言っていたのです。「民よ、私はこのように見えるものなのだ。私はこのように考え、このように愛するのだ。信仰的に盲目で疲れ果てている人々の言葉や見せるものに誤って導かれないようにしなさい。自分の心と思考の目を開き、私を見るのです。そのことで高い代償を支払わないでください。頭の中の言葉を整理しなさい。その問題がどう見えるかではなく、何が問題かを見るのです。」

昔からこう言われています。「キリスト教とは、その最も純粋な姿では、イエスを見ること以上のことは何もない。クリスチャンの奉仕とは、その最も純粋な姿では、私たちに見える彼の姿を身にまとうことなのだ。」 神が誰で、彼が何をする方なのかをもしかしたら皆さんは発見したのであり、今、それが見えるようになったかもしれません。

賢い男と女は求め続け、そして彼を見るのです。

エド・デルフ/Ed Delph December 3, 2019 CCC

Ed Delph/NATIONStrategy

7145 W. Mariposa Grande Ln.

Peoria, AZ 85383 USA

623-363-9961 * Fax 623-537-1446

www.NATIONStrategy.com

"People Who Empower People To Transform Communities'

Comments


© 2019 Home Church. Proudly created with Wix.com

Join Our Mailing List
bottom of page