自分が座っている木の枝を切り落とすという馬鹿げた選択
- Ed Delph

- Jun 27, 2020
- 5 min read
Updated: Jun 28, 2020

今回のお話のタイトルは結構なコンセプトですよね?今日の行いが明日、悪く苦痛を与える方へと働くことが有りえるという現実が、私たちには時として見えていないのです。快適を求めながらも今の状況に賢くないことは、明日の未来を犠牲にしてしまう現実を迎える可能性をはらんでいるのです。以下に私が今日お伝えしたいコンセプトを描いた三つの短いお話があります。私はそれを自分が座っている枝を切ってしまうことと呼んでいます。
口に骨を加えて橋を歩いて渡る犬の話があります。彼が川をのぞき込み、その水面に映った姿を見たとき、別の犬がそこにいると思いました。その犬は相手の犬がより大きな骨を持っていると思ったのです。その犬は川に飛び込み、大きな骨を取ろうとしましたが、溺れてしまいました。嫉妬と妬みの人々は、時として手痛い結末を迎えるような選択をするのです。その犬は自分が座っていた枝を切ってしまったのです。時として人はそのようなことをするのです。
自分が座っていた枝を切ってしまうというコンセプトを描いたもう一つの話があります。年老いた女性が最近亡くなりました。彼女は生涯独身であたので、男性が棺を担ぐことはないようにと遺言しました。彼女の手書きの葬儀についての指示を書いたメモにはこう書いていました。「彼らは私が生きている時に私を外に連れ出さなかったので、私は死んだときに彼らに外に連れ出してほしくない。」それは失望から来る憎しみと呼ばれるものです。Jane Austinの言葉によると、憎しみとは「誰にとっても、最も同意できない選択肢」なのです。
三つ目の例えがあります。ブルックリンの高給ペットショップで、年老いた女性が店に駆け込んできました。「私はカナリアが欲しいの。でも知れは真に素晴らしい歌い手でないといけないわ。ここにキャッシュがあるわ。でも本当に良い歌い手の鳥でないと払わないわよ。」ペットショップのオーナーは5mほども上の天井近くの棚に梯子をかけて昇っていきました。「奥様、私は40年、この商売をしています。この鳥かごの中の鳥は私が今まで手にした最高の歌い手です。」「単にあなたがお猿さんのように梯子をわざわざ上って持ってきたからって、私が何かを支払わなきゃいけないって思わせるわけじゃないでしょうね。私はカナリアが欲しいの。しかもこの辺で最高の歌い手のカナリアが。」
店主が梯子から降りてくると、彼は言いました。「奥様、この鳥は羽毛をまとった実在するカルーソーです。」鳥かごをカウンターに置くとカナリアは、メロディーを次々と大きなさえずりで奏でた。驚いて、その女性はつぶやいた。「この鳥は本当に素晴らしい歌い手だわ。」
突然、その女性は何かに気づきました。彼女は店主に叫びました。「ちょっと、それ何? その鳥は足が一本しかないじゃないの。」そのペットショップのオーナーは答えました。「奥様、何が欲しいのでしょうか? 素晴らしい歌い手でしょうか? ダンサーでしょうか?」彼女のその非現実的な期待から来る感謝の無い気持ちによってその奇跡を心に受け止める事が出来なかったのは恥ずべきことではないでしょうか?彼女はカルーソーのように歌う鳥が欲しかったのではなく、カルーソーのように歌える完璧な鳥が欲しかったのです。彼女は人生の中のチャンスを逸しました。彼女は少なくとも、一万羽に一羽の歌う鳥を欲することに関しては、自分が座っていた木の枝を切り落としたのです。それは不条理なことなのです。
自分が木の枝に座っている時、自分を支えている木からその枝を切り落とさないようにすることを理解してください。皆さんは、このような状況が生じるのを家族や結婚の中で何度も目にしているはずなのです。時として私たちを最も愛してくれている人を私たちは自分から切り離すのです。それはその場の戦いに勝って戦争全体に負けるようなものです。自分に敵対することをするようなものです。自分に敵対することは不条理なのです。
この混沌とした現代の時にあって、自分が座っている木の枝を幹から切り落とさないように気を付けてください。残念なことに多くの人々がそれを実行しようとしています。ここに私が用いることのできる100の中の例えの一つがあるのです。人種差別主義(現代にあって必要としているもの)に対する平和的な行進よりも、すさまじい怒りに満ちた行進が最終的に各店々に強奪に入る様子を写した警察のビデオ録画で終わってしまっているのです。
平和的な反対運動と強奪を伴う反乱には大きな違いがあるのです。良いことでも、行き過ぎるなら、悪いものをもたらすのです。このような行動は、彼らが手にしたいと思っていたゴールと、それを見つめる大衆の心を切り離してしまうのです。そして彼らのこれから先の人生においては、その警察の録画したビデオが残り、それとともに自分の将来に影響するテロ事件の影響が残るのです。
考えてください。今、何を考え、決心しようとし、或いは計画していることが、自分が将来どこに行き、何をしたいのかについて、どう基本的な影響をもたらすのでしょうか? 自分が何かのドラマ、迫り来るもの、或いはその時の感情に捉えられてしまい、自分が行きたくない場所へと導かれていくのではないでしょうか?
大切な決意をする時に、自分に問いかけるべきことは、合法的な代案があるのかどうかということです。私の過去の経験、今の状況、そして未来のゴールと、こうしたいという欲望との光に照らして、この決心や選択は賢いかどうかということなのです。もしそれが賢くなく、合法的でないなら、それから一歩下がってはいかがでしょうか?自分が座っている木の枝を切り落とさないでください。
多くの人が昨今はその人生とライフスタイルから神を取り除いています。どうかそうしないでください。現代の流行、問題、今の考え方に、自分の座っている木の枝を、自分を最も愛している幹(神)、そして最も自分が必要としている幹(神)から切り落とさせないようにしましょう。それこそが「最も受け入れがたい選択肢」なのです。
自分が間違えている方向に走っている時、どんなに速く走っているかは問題ではないのです。Jane Austinはこう言うでしょう。「自分の感覚が馬鹿げている時、自分の感受性を用いるのだ。」
エド・デルフ/Ed Delph June 29, 2020 CCC
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