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羊である羊飼い

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Jan 25, 2020
  • 5 min read


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バーニーとエステルは信仰的なカップルの部類ではありませんでした。実際、彼らは年に一度しか教会に入っていませんでした。彼らが教会から出ていこうとした時、牧師はこう言いました。「バーニー、君とエステルを年に一度以上、見ることができるようになれば本当に良いのですが!」「わかってるよ。」バーニーは言いました。「でも、僕らは少なくとも十戒は守りますよ。」「それは素晴らしい。」牧師は言いました。「君たちが十戒を守ると聞いて本当にうれしいよ。」「もちろん」バーニーは誇らしげに言いました。「エステルが6個守って、ぼくが4つ守ります。」

牧師の人生にようこそ。私はここフェニックス地区で何年も何年も地域教会の牧師をしていたのでよく知っています。私はいまだに牧師ですが、今は世界中の牧師たちを牧しているのです。羊、あるいは牧者であることは面白いことです。私たちは羊に何が起こるか決してわからないのです。彼らは迷い出ていなくなります。彼らは気が付きません。彼らは、私が愛情込めて言うところの、人生を築き上げる、いろいろなものなのです。何を意味しているのか、少し説明させてください。

詩編23は聖書で最も有名な詩編の一節かもしれません。人生のどこかで耳にしたことが有るでしょう。「主は私の羊飼い。私は乏しいことが有りません。」この一節はダビデによって書かれました。彼は、主がどのようにしてその民である人々(自分自身を含めて)を、まるで羊飼いが羊を導くように、数多くの罠、試練、敵から狙われたりすることから守りながら、蜜びくのかを表現したものです。神の名前の一つはJehovah Rohi、主は私の羊飼いです。ダビデは、羊の牧者であることと国のリーダーであることの両方、彼はリーダーでありながら、羊飼いのようにリターダーたちを導くそのリーダーに導かれた一人のリーダーであることについて、ひらめきを手にしたのです。

使徒ペテロは羊飼いの例えを、その教会の牧者やリーダーたちに宛てた書簡の中で用いています。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」(Iペテロ5:1-4)

この聖句の中に羊飼いのジレンマがあることに気づきましたか? 牧師は羊であると同時に羊飼いなのです。羊飼いが羊でもあるのです。牧師は、二重の役割、二重国籍なのです。1980年以来、牧師でありながら私は学んできました。牧師として、私は人々を羊としてみてしまう傾向があり、自分が羊であることを忘れてしまうのです。私は自分の羊性で苦しんでいるのです。

私は人々をきれいな水に導き、守り、備えさせ、休ませ、移動させ、答えを知り、人々を彼らの人生の良き時も悪い時も導き、荒野の中でテーブル席を見つけ、等々羊飼いの仕事をするものと思っています。しかし、羊であることと牛であることには違いがあります。牛は手綱で進む方向を指示し、追うこともできますが、羊は手綱で引くことはできず、追うこともできないのです。羊は導くものなのです。

事実は私も羊の一匹であるということなのです。私も羊飼いが必要なのです。私も羊が必要とする全てのものが必要であり、羊であり羊飼いであるが故にもっと多く、そのような類のものが必要なのです。私は時々、自分の羊性を忘れ、それが群れの残りの羊に影響するのです。ですから、私は羊たちの容姿を整えながら、自分の羊としての容姿を整えなければならないのです。私は羊の形の全てが必要なのです。

以下に、羊性を忘れた羊飼いが、ある羊によってそのことを思い出した例えがあります。その宣教師は控室に走り込むと、そのメッセージを記したノートをテーブルの上にたたきつけました。「今日」彼は教会の執事に叫びました。「私は、馬鹿ロバの集まりに日曜の説教をしてしまった。」教会の執事はうなづきました。「だから、あなたはずっと、彼らを『愛されている兄弟姉妹たち』と呼んだのです。」

何故、多くの牧師たちがその宣教活動の中でつらい日々を過ごし、さらには堕落し、教会の内外で人々の語り草にされているのでしょうか? 彼らは自分の「羊性」を忘れているのです。彼らは、羊を手綱で引っ張ろうとしはじめ、導くことを忘れてしまうのです。そうなると羊たちは互いに噛みつきだします。そして羊はリーダーに従うことをやめ、私の言うことを聞いてください、彼らはリーダーを必要としだすのです。彼らは羊なのです。

ですから、もし羊が休みを必要としたら、きれいな水のほとりに横たわらせ、魂を回復させるための休みを与えるために、義の道を導きあゆみ、死の影の谷を通り抜けるように教えるのであり、そしてその後に牧師もそれが必要なのです。何故でしょうか? 彼も羊だからです。

羊に対して私はこう言います。自分の羊飼いに対して、祈り、誇りに思い、従いなさい。彼らはあなたたち羊の魂をずっと見張っているのです。そして、彼らも羊にさせましょう。羊飼いたち。私はこう言います。「自分の羊性を大切にしなさい」

エド・デルフ/Ed Delph January 27...CCC Message Bible (1 Peter 5:2-4)

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