緑色の目をしたモンスターを飼いならす
- Ed Delph

- Jun 18, 2022
- 6 min read

時々どのような人にも当てはまる姿から始めさせてください。それは「どこにも行かないボートを漕ぐ」というタイトルです。
「ある船乗りが酒を飲んでいた。それは真っ暗な深夜のことで、自分の船に戻ろうと彼らは思った。彼らは、自分たちの上陸用の手漕ぎのボートを置いた場所に戻り、オールを手にした。彼らは漕いでは漕ぐと少しだけ進んだように思えた。そして、彼らの中のしらふの男が、そのボートを桟橋に繋いでいたロープが結ばれたままであったことに気がついた。ちっょと考えてみてください。その船乗りたちが行きたい場所に行くのを阻んでいた唯一のものは、その夕方彼らが結んだがほどくことを忘れていたロープなのです。画家のMariam Paréは、背骨の神経をケガで痛めた後、口でペイントをすることができるようになりました。彼女が晩年、もし彼女が20才ならどのような絵を描いていたと思いますか?と尋ねられた。
「もし私が20年前の自分に話しかけることができたとしたら、私は自分に向けて強みに焦点を当てるのであり、弱みに焦点を当てるのではないと語っていたでしょう。自分が出来たものとできなかったものについて。秀でるように頑張り、そのようなスキルを最も素晴らしいレベルまで研ぎ澄ますまで。これが私の未来を確かにする最高の戦略だったのです。私は自分に向けて、自分が持っている真の障害とは、自分で作り上げたものだと言い聞かせていたと思います。」言い換えるなら、自分で勝手に担った監視の目と周囲への敵対心から自分を解き放つのであり、そうすれば、人生はあなたを満足のいくところへと導いていくのです。
現在の感情的な外見を明らかにする質問を私たち自身に向かって問うてみましょう。「私は誰に対して最も批判的であろうか? それはねたみか嫉妬からくる批判か? 誰と自分を比べているか? 私の存在を祝ってくれる誰か他人に対して黙って辛抱して聞くことができるか? 私の非難の理由は何か? 自分が嫌っているように見える人への嫌悪感の源は何か? それは自分が妬んで裏切ることになり得るか?」
意図的であろうが、そうでなかろうが、私たちがソーシャルメディアで目にして、耳にするほとんどすべての人は、大衆の妬みを産み出すようにしているのです。妬みは、嫉妬、さしてついには強欲に奪おうとする緑色の目をしたモンスターなのです。
皆さんは妬みがイエスを十字架につけることとなった地の理由だと知っていましたか? 「そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」と言った。ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。」マルコの福音書15:9-10。妬みは私たちの友人ではないのです。
妬みについての知恵をいくつか手にしてみましょう。これは何か、なぜこれか、そして妬みが理解されずおさめられなかったら何に変化するか。
辞書によれば、妬みとは他人が持っているものに対して満たされない思いを抱くこととあります。妬みとは他人が持っているものと同じものを持ちたいという強い望みなのです。その望むものは素質、持っているもの、他人の性格、特に良く知られている対立相手やアイドルに属するものはそうなのです。イギリスの哲学者、Bertrand Russellは妬みとは主に二つの不幸をもたらす大きな要因であると述べています。妬みは人々を不幸にします。妬む人は、その対象者が自分と同じようにみじめであることを望むからです。
心理学者は二つの種類の妬みがあるとしています。悪意のある妬みは、他人がその持つものにより破綻することを望むネガティブな感情なのです。このタイプの妬みは「ヒーロー」を「困っている人」にしたいと思うのです。温和な妬みは前向きなモチベーションの力であり、そのヒーローと同じように良くなりたい、ふーあるいは同じようなものを持ちたいと願う思いです。残念ながら、今日の世界では、破壊的な妬みがより人々を引き付けているように見えます。
どのようなキャリアの場であろうが、もし自分も同じものを持っていると直感的に思いながらもそれができなかった一方で、誰かが気に入られ、結果を手にしたなら、私たちは妬むのです。自分の劣等感、待ち望むもの、環境に対する不満、その妬みの対象の人に対して悪いことが起きることを望むこと、それらが妬みを引き起こすのです。妬みの怪物をおさめていないと、それは嫉妬へと姿を変えるのです。
妬みは他人の成功、優れているところ等の理由により、その他人に対しての納得できない思いからもたらされる感情なのです。プライドはこう言うのです。「私の方が良い」 嫉妬は「あなたの方が良い」というのです。嫉妬は怒り、納得のいかない気持ち、欠点、どうにもならないという思い、嫌悪感、といった感情から構成されたりします。嫉妬は妬みよりも有害です。嫉妬は疑い深く、何かに反応しやすくなります。これは、嫉妬するようになる具体的な理由がない時にさえも、疑いにより他人に対して嫉妬するようになりえるということなのです。もし嫉妬の怪物がおさめられていないなら、それは強欲へと変わっていくのです。
辞書によれば、聖書でいう「欲しがる」とは「他人の権利などに関係なく、間違えた形で望むこと」とあります。聖書でいう「欲しがる」は他人の繁栄や所有を手に入れたいと望むことです。何かを聖書の意味で「欲しがる」とは、単にそれを欲しいと思うだけではなく、それについて行き、欲しいと思い、それをどんなことをしても手に入れたいと行動することです。人は他人に属しているものを「欲しがる」だけでなく、神が持つことさえも「欲しがる」こともできるのです。
「汝欲しがることなかれ」は聖書の他の十戒とは違っています。他の戒律は外側への行動について述べているのです。「欲しがる」ことはその人の心の状態を反映し明らかにするものなのです。「欲しがる」という面において、問題の中心は私たちの心の中にあるのです。
以下に簡単な比較があります。妬みはこう言います。「私はあなたが持っているものが好きだ。私はあなたが持っているものが欲しい。」 良い方に出るなら妬みはこう言うのです。「それをどうやって手に入れたか教えてください」悪い方に出ると、それは嫉妬へと形を変えていくのです。嫉妬はこう言うのです。「私はあなたが持っているものが欲しい。私が手に入れるまで、あなたも手に入れてはいけない。」 聖書でいう「欲しがる」はこう言うのです。「私はあなたが持っているものが欲しい。私はあなたよりもそれに対して価値を感じている。だから、私はあなたが持っているものを手に入れるために必要なことをする。それはあなたから奪うことも含めて。」
大半、あるいは多くの場合、私たちが国、政治、メディア、ソーシャルメディア、教育、スポーツ、汚職、魂の癒し、その他で直面している倫理や現象の問題は、妬みが嫉妬に代わるところからきているのではないでしょうか?
もし今回のお話が皆さんの心に響くなら、ここに私たちの教訓があります。私たちはそれを手放せますか? 私たちは波止場からロープを放すことはできますか? 多くの場合、私たちが持っている障壁とは私たち自身が創り出したものであると受け入れることができますか? 緑色の目をした怪獣を倒すために神の助けが必要であることを受け入れることはできますか?
もし皆さんがそれを受け入れることができるなら、皆さんはそこから抜け出す私たちの道の上にいるのです。
エド・デルフ/Ed Delph/June 20, 2022/CCC
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