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究極の墓堀人夫と喜びを盗むものに出会う

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Oct 19, 2019
  • 6 min read

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皆さんは自分の状態や喜びの事で苦悩していますか?自分ではどうにもならない環境について苦悩していますか? 自分の人生のタイヤの音でイライラしていませんか?もう一度、喜びを取り戻したいと願っていますか? もしそうなら、聖書のピリピ人への手紙は私たちから喜びを奪う四つのものを解き明かしており、この書簡の四つの章にそれぞれ一つづつ書かれているのです。この四つの墓掘り人夫の任務は私たちの喜びの墓を掘り、そこに葬ることなのです。

喜びと言う言葉はピリピ人への手紙に19回、引用されています。その言葉の精神については15回述べられています。喜びとは、私たちがどう考えるかと直接リンクしているのです。喜びとは自分の周囲に起きている事をどう扱うかによって決まるのです。人は自分の考え方によっては災いを引き寄せる磁石にもなり得るのです。どうすべきでしょうか? 考え方、視点、今までの物事に対処する方法を変えるのです。この人生において、苦痛は避けられませんが、喜びは避けることもできるものなのです。苦痛は必ずあるものですが、惨めさは時として選ぶことができるのです。

第一章においては、使徒パウロは喜びを盗む最も危険な第一のものとして、置かれた環境について解き明かし示しています。私たち人間は次のような仮定をよくするのです。「置かれた環境は自分が幸せになるようにあるべきだ。自分は決して苦しむべきではない。」しかし現実は理想的な環境に幸せを依存している人はより多く惨めさを感じる時を過ごすのです。

ピリピの教会にパウロが書簡を書いた時の彼の置かれた環境を考えましょう。第一に彼はローマの牢獄にいました。彼はローマ帝国の特別任務にあたる近衛兵に鎖で繋がれていました。その兵はカエサルの直属の兵です。パウロが牢獄にいる間、他の宣教師たちは、自分の経済的利益のためだけにキリストを伝えていました。彼らはパウロに対しても批判的でした。彼らは、パウロがその置かれている状況に圧倒されて打ちのめされるように敢えてこれをした側面もあるのです。

しかし、そうではありませんでした。まだ続きがあるのです。パウロはパウロは福音を守るために行く事になっていたのです。この皇帝はクリスチャンたちを逃げ迷わせ、焼き払った人物です。その故に、彼の友人たちは離れて行きました。そして彼が書き送っている先のピリピの教会さえも、その古い宗教的習慣に背を向けて物質的な

しかし、そうではありませんでした。まだ続きがあるのです。パウロはパウロは福音を守るために行く事になっていたのです。この皇帝はクリスチャンたちを逃げ迷わせ、焼き払った人物です。その故に、彼の友人たちは離れて行きました。そして彼が書き送っている先のピリピの教会さえも、その古い宗教的習慣に背を向けて物質的なものを愛していました。そして遂にはその教会の信仰的な争いの中に二人の女性が現れ、教会に二つの派閥を作ったのです。

苦境について述べるなら、私たちの中にもパウロよりも大きな問題を抱えている人は幾人かはいるでしょうが、これほどの数の問題を抱えてはいないでしょう。これらの状況の中においても、パウロはこう言っているのです。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」(ピリピ人への手紙1:12)

このような状況の真只中においてさえも、パウロは決してその喜び、視点、態度を変えることはありませんでした。彼の置かれた環境が彼を支配することはなかったのです。彼は置かれた環境を支配したのであり、少なくともその環境に対する自分の反応を支配しました。彼はサーモスタットであり、温度計ではなかったのです。温度計は上がったり下がったりします。温度計は反応的です。サーモスタットは能動的です。サーモスタットは暑さや寒さが来たら電源を入れるのです。

パウロは何があっても喜び続けました。彼は全体像を見ることができました。彼は「そして今やそこから先の話は歴史の通り」となる事を確信していました。彼は、自分がどん底に叩き落とされ全てを失った時、神が上へと引き上げ何かをする事を知っていました。彼は自分が問題を抱えている事を知っており、しかし彼は自分の今の状況よりも大きな、ある源を持っている事を知っていたのです。

聖書は「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」と教えています。パウロは喜びを失えば、力を失う事を知っていました。力を失えば、戦うことができません。戦うことができなければ、大局をめぐる戦いに負けるのです。幸せは環境に依存しますが、喜ぶことは、選ぶ事ができるものなのです。

そうです。パウロは牢獄にいましたが、今や彼が牢獄にいることで教会の多くの人々は福音を伝える勇気をを持ったと指摘したのです。なんと前向きなことでしょうか? 全てがネガティヴではないのです。これは素晴らしい福音伝道の戦略です。牧師を投獄すれば、その信徒たちはその信仰について話し始めるのです。皆さんが牧師でない限り、悪い話ではありません。

パウロはピリピの人々に続けてこう述べています。「聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。」お分かりでしょうか?近衛兵、ローマのエリートたちが「聖徒たち」あるいはクリスチャンになったのです。パウロは彼らに鎖をつけませんでした。彼らがパウロを鎖で繋いだのです。パウロは目を奪われた観客を持っていたのです。その気の毒な兵士たちはクリスチャンに満たされる喜びから逃げられなかったのです。カエサルの家でありながら福音はカエサルの家に属する人々の真ん中に入って行ったのです。そして100年後、ローマはほとんどクリスチャンの国になったのです。どこから始まったのでしょうか? 牢獄の部屋からなのです。

もしかしたら、皆さんは置かれた状況に鎖で繋がれていると思います。こう考えましょう。それが皆さんに鎖で繋がれているかもしれないのです。自身が喜びを失わない限り、悪い状況は信じられないチャンスへと変わり得るのです。全ての状況において彼はこう言いました。「このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

」(ピリピ1:18) 状況の如何に関わらず、彼は落胆するよりも喜ぶ事を選びました。彼の力を主は喜んだのです。それは皆さんにもそうあり得るのです。被害者から医者に代わりましょう。

覚えてください。喜ぶことが先であり、状況は次なのです。それは、自分よりも高い次元の源と援助を方程式に持ち込むのです。それはポジティブシンキングよりも素晴らしいのです。それは「God thinking」なのです。それは人生の上昇と下降、回り道を越える平安と力なのです。

自分の喜びに世の中や状況を変えさせ、決して世の中や状況に自分の喜びを変えさせないようにしましょう。

Ed Delph October 21, 2019 CCC

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