私の問題は取り除いて。でも豚は残しておいて。
- Ed Delph

- Nov 14, 2020
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司祭が農夫に言いました。「もしあなたが馬を持っていたら、主に捧げますか?」「はい、私はそうします。」農夫は答えました。「もしあなたが牛を持っていたら、それを主に捧げますか?」「もちろんです。」農夫は答えました。「ヤギだったらどうですか?」「もちろん」「豚は」「それは公平な質問ではありません!」農夫は抵抗して言った。「あなたは私が豚を持っていると知っているからです。」
ここに私たちへの教訓があります。他人に対して起きている限りは何でもないのですが、しかし、それが自分の世界に入ってくると、全く別の話なのです。言い訳について考えましょう。私たちは言い訳を弾丸よりも早く、機関車よりも強力に作り出せるのです。クラーク・ケントで例えると、彼がやりたくない何かの領域に自分が入り込むなら、自分は最後にスーパーマンになっておしまいなのです。私たちは皆、邪魔されたくない、誰にも入ってほしくない領域があるのです。そうですよね?
イエスはゲラサと言われていた地域でその人間の性質の中に飛び込みました。そこで非常に病んでいた人が住んでいました。聖書は彼がレギオンと呼ばれる汚れた霊に取りつかれていたと伝えています。それは3000ほどの混沌とした問題でした。彼は町の墓場に住み、街の中を裸で走り回りました。町の人々は彼を鎖や足かせでつなぎとめようとしましたが、彼はそのたびに、それをちぎって逃走していました。その苦しむ人は、町の苦痛だっただけではなく、彼自身の苦痛でもあったのです。
イエスがゲラサに入った時、その苦しむ人は彼のところに走り寄り、イエスの事を「いと高き神の子」と呼びました。汚れた霊はイエスと退治できないので、イエスに出て行くことを懇願し、そのようにしてもらいました。汚れた霊たちは苦しんでいた人から出て行き、山すそにいた2000頭の豚の中に入っていきました。苦しんだ豚は、急な山の斜面を下りおり、海へと身を投げ、全ての豚はおぼれ死にました。私はこれを「豚ダイブ」または「デビルハム」と呼んでいます。彼らはイエスの栄光を豚のようにむさぼり食べたのです。すいません。
その取りつかれていた人には何が起きたのでしょうか? そこには癒された人が立っており、正気に戻っていました。町の人々は驚き、恐れ、すこし頭がおかしくなりました。彼らはイエスに町の問題は取り除いてほしかったのですが、豚は残しておいてほしかったのです。彼らは問題を解決してほしかったのですが、豚を失うという代償は支払いたくなかったのです。
私はこのフレーズが好きです。「私の問題は取り除いて、でも豚は残して。」私たちは誰しも、これをいつもしているのです。少し例をあげましょう。「私の借金はなくして、でもクレジットカードは残して。」「私の体重は減らして。でもチョコレートケーキは残しておいて。」「私のコレステロールは下げて。でもスーパーダブルサイズの70%脂肪除去のハンバーガーは残しておいて。」「私の性病は直して。でも私の乱れた性癖の生き方は残しておいて。」「私を薬物治療から解放して、でも薬は置いといて。」「私の懲役刑をなくして。でも盗んだお金はちょうだい。」いかがでしょう?
私たちは自分が望むとき、自分がしたいことをして、自分が欲しいものを手にすることが好きです。しかし、自分の意思決定から来る負の結末は手にしたくないのです。多くの場合、自分の選択の結果について、神を責めるのです。それは神にこのような手紙を欠いている人のようです。「親愛なる主よ。私には問題があります。それは自分です。」
残念ながら、私たちはこれをデートの時の関係にも見ることができます。会ったばかりの男とデートを従っている女の人を例にとりましょう。彼女の一番の友だちは気づいて、彼女を家に送り届ける時にこう忠告しました。「彼は車を持っていないし、家もなく、仕事もなく、養育費を支払っていない子どもたちもいて、でもあなたは彼がイカスからってデートをしたいと言う。あなたは、なにか愚かな人の一人よ。自分がデートをする人と結婚するということを知らないの?」これは皆さんにはきつい言葉かもしれませんが、もし自分がその女の子なら、決してそこで怒らず、そのイカス男の子が去って行っても心を痛めないでください。それはまるで「私から離婚を取り除き、でもそのイカス男の子は置いておいて。」なのです。
さて、先ほどの苦しめられていた男はどうでしょうか? イエスが来て、彼は新しい人生を手にし、霊的にリセットされ、つまり、きれいにされ、洗われ、苦しみは去り、神が彼の上に計画していた人生を歩むことを許されました。それは私たちにも当てはまることなのです。私たちにはそれぞれの過去があります。私たちは、今まで最善ではなかった選択をいくつかしてしまっています。私たちの誰ひとりとして、全く罪がないわけではないのですが、私たちは毎日、昨日よりも良い人になるために新しいスタートをしているのです。どうしてこんなことが起きるのでしょうか? もし自分が豚を飼っているなら、豚の存在を認め、豚を手放し、より大きく、より良く、偉大になっていくべきなのです。
時として、私たちは何かを手放して上に昇らないといけないのです。自分と周囲にこう伝えて自分がそこから離れる時が来るのです。「私は少しどうかしていた。正しいか、間違えているかは別として、私は自分の望むものを手にしていなかった。」イエスは言っています。「もし自分の人生を救いたいなら、自分の人生を失う必要がある。自分が高められたいなら、へりくだらなければならない。自分が神の御国で大いなるものとされたいなら、自分は人々への奉仕者でなければならない。」時として、私たちは力を得るためには、力を削がれる必要があるのです。考えてみましょう。先ほどの話は、町の豚という代償が必要でしたが、それは地域社会の問題を解決し、地域社会の問題であった市民を解放したのです。それは両者を良くしたのです。そうです。それには代償が必要なのですが、結果は天のレベルのものだったのです。
ある人が私たちのような人々に向けてこう書いています。「結婚は大変。離婚は大変。自分にとってどちらの大変が良いか選ぶのです。太っていることは大変。痩せるのも大変。どちらの大変が良いかを選ぶのです。借金漬けも大変。お金を管理してきっちり使うことも大変。どちらの大変が良いか選ぶのです。人生は決して楽ではないのです。人生は常に大変なのです。しかし私たちはどちらの大変が良いか選べるのです。賢く選びましょう。」
自分の人生の長さは神の手の中にあります。自分の人生の残すものは、自分の手の中にあるのです。
エド・デルフ/Ed Delph November 9, 2020, CCC
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