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私たちの遺失物預かり所へようこそ

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Jan 29, 2022
  • 6 min read

Updated: Mar 30, 2022

私の最も好きな聖書の個所はルカの15章です。そこには失うことと回復することについての三つの話があり、すべての話は人がこの世で何かを失った人がどう感じていようが、癒すための道は常にそこにあることを伝えるように構成されているからです。神は私たち全て「何か欠けている」人々がいつの日か戻ってくることを、待っており、愛しており、そうなって欲しいと思っており、望んでおり、希望を持っているのです。神にとって「何か欠けている」とは何を意味するのでしょうか? それは神が私のたちの欠けている部分を知り、しかし私たちは素晴らしいと知っていることなのです。


天国は失い、そして見つけるところであり、単に見つけるところではないのです。イエスは世を裁くために来たのではありませんでした。彼は私たちを世から救い、助け出すために来たのでした。イエスは私たち一人一人に「あなたのために命を捨てる価値がある」と言っているのです。私たちが神にとってどれだけ価値があるか、私たち自身が気づくとき、私たちは自分の安売りをやめるのです。人々が理由もなく私たちを嫌うとき、神は私たちを理由もなく愛していることを思い出してください。


この「欠けている」ことについての短いお話を読んでみてください。

ある有名な講演者が、セミナーを始めるにあたり20ドル札を掲げた。部屋にいた200人以上に向かって、彼は質問をした。「この20ドル札が欲しい人は?」手が次々と上がった。彼は言った。「私はこの20ドル札を皆さんの誰かに差し上げますが、最初に、これをさせてください。」彼はその20ドル札をくしゃくしゃにした。そして彼は言った。「まだ欲しい人は?」すべての手がそのまま上がった。


「いいでしょう。」彼は言った。「もし私がこうしたら?」彼はその札を床に落とし、靴で踏みつけ始めた。彼は拾い上げたが、それは完全にしわくちゃで汚くなっていた。「さて、まだこれが欲しい人は?」すべての手が上がり続けた。「皆さん、今、皆さんは大切なことを学んだのです。何もこの札の価値を損なわなかったのです。この20ドル札が踏みつけられ、汚くなってもそれは依然として20ドルの価値のままなのです。」


私たちの人生で、私たちは時として自分の下した決断によって、あるいは私たちの人生の道の環境によって、捨てられ、踏みにじられ、泥だらけの地面に放り投げられるのです。その結果、私たちは自分が価値がないと思うのです。しかし、何が起きていたとしても、あるいは何がこれから起きようとも、私たちは神の目から見て何の価値も損なわれることはないのです。神にあって、汚かろうが奇麗であろうが、しわくちゃであろうが完全に折り目一つない状態であろうが、神にとって、皆さんはそれでも値がつけられないほどの価値があるのです。」


私たちの遺失物預かり所であるルカ書15を訪ねてみましょう。第一に私たちは失われた羊の話を見ます。次に失われたコインの話です。そして最後に、失われた息子です。ここで私が失われたということに焦点を当てていることに着目してください。人々は物ごとの悪い面を見る傾向があります。私たちは恥と間違えたところの観点で見るのです。ですから、私はそれを変えようとしているのです。神は他の道を信じています。神は見つけられた羊、見つけられたコイン、見つけられた息子を見るのです。彼らは一度失われ、しかし今や見つけられたのです。


これは、イエスによってそこに集っていたパリサイ人に語られたものであり、罪びとと食事をしていたとしてイエスを非難していたのです。お分かりの通り、パリサイ人はフェアではなかったのです。彼らは、皆をその行いで裁いていました。パリサイ人は最悪の宗教を表しているのです。しかし、イエスは神が人々をどう思っているかを示すために来たのでした。パリサイ人は人々の名前を知っていましたが、彼らをその罪で呼んでいました。イエスは人々の罪を知っていましたが、彼らをその名前で呼びました。その人がどのような人であるかということと、その人がしていることは別のものなのです。


イエスは100匹の羊を持つ人の例えを用いました。もし彼がそのうちの一匹を失えば、彼は99匹を残して失われた一匹を探しに出て、それを見つけたら喜ぶのです。99匹を残して1匹を探しに行くのは、自分がその迷い出た一匹出ない限りは、一見してばかげているように見えます。羊は時々間抜けに見えますが、しかし価値あるものでもあるのです。そしてイエスも喜びにあふれてこう言っているのです。「私と一緒に喜んでくれ! 私はいま失われていた羊を見つけた! 考えてみましょう。一人の失われた人の救われた人生の上にあることは、99人の救いを必要としない人々の人生の上にあることよりも、天においては喜びが大きいのです。」


そしてイエスは10枚の銀貨を持つ女性が、一枚をなくし、ろうそくで照らし、床を掃除し失われたコインを探すたとえ話をします。彼女は失われたコインを見つけた時に喜びます。見えにくいことは、価値が低いこととは違うのです。繰り返し彼は天と悔い改めの例え話をするのです。イエスが強調していることは、これらをあきらめることではなく、あるいは失ったことで嘆く人のことではないのです。教訓;何か価値あるものを再び手に入れること、永遠に失っていたと思っていたものを再び手に入れることは、常に再び喜ぶ理由であるということなのです。そのコイン、持ち主にとって非常に意味のある価値を持つコインは、失われましたが、再び見つけられたのです。


最後に、私たちは父と二人の息子の話を見ます。彼のわがままな放蕩息子は、生まれ故郷から、遠い国で神とは無縁の暮らしへと迷い出ていきました。彼は相続財産を使い果たし、父の栄誉を汚し、父の彼への愛を誤解していました。神から離れて歩く人は、必ず神からさらに離れる方向に動いていくのは興味深いことではないでしょうか? 正気に戻り、その放蕩息子は父のもとへと帰ったのです。


彼の父が、遠くから彼が帰ってくるのを見つけますが、まるで彼の息子が戻ってくることを知っていたようでした。父は彼のもとへと走り寄り、彼を赦し、人々の中へと歓迎して迎え入れ、彼の帰りを祝宴で祝いました。父はこう明言します。「私の息子はここにおり、死んだと思ってあきらめていたが、今、生きている。失ったとあきらめていたものが、今見つかったのだ!」教訓;神を忘れ、自分でへりくだり、ついに自分が神をどれだけ必要としていたかについに気付いた人々は、そこに戻った時、罪のない栄光に満ちた帰宅を果たすのです。なぜでしょうか? 神は死んだもの(DEAD)ではなく、父(DAD)だからです。


羊の話は神との間の壊れた人間関係について問いかけています。コインの話は壊れたアイデンティティ、女性の見失っていた一部を示しています。息子の話は壊れた家庭の話です。


羊の話は信仰的な迷子を示しています。コインの話は、人々の心の中の機能の喪失を示しています。そして最後に息子の話は社会の痛みを話しているのです。


今も働く父、息子、聖霊はこの問題を問いかけているのであり、もし人々が迎え入れるならそうするのです。失われた羊の話は、良い羊飼い、すなわち我々を救う息子であるイエスを示しています。見つけられたコインは良い癒し手、解き明かし回復させる聖霊を示しています。帰ってきた息子は、その息子を愛する良い父を表しています。


今日、学ぶべきことは、神とそのしもべたちは、汚くてしわくちゃの20ドル札である私たちを愛していることです。最終的には、それは私たちと神との間の問題なのです。それは決して私たちとバリサイ人との間の問題ではないのです。それは私たちが何を知っているかではなく、誰を知っているかであり、それが天国で問題なのです。

私たちの遺失物預かり所へようこそ。

エド・デルフ/Ed Delph January 31, 2022

Ed Delph/NATIONStrategy

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