私たちの人生と祈りの中に‘Yes, No,成長、そしてゆっくりと’
- Ed Delph

- Nov 16, 2019
- 5 min read

私たち誰しも思い当たるものがあるユーモアのある二つの人生の教訓を考えてみましょう。一つの祈りは祈りそのものに対するものです。もうひとつは我々人間の成熟の過程に関するものです。良く言われながらも、ほとんど理解されていない通り、祈りというものは少しの説明と探求が必要なものです。以下の祈りに対する答えの理解に対する教訓から始めてみましょう。
二人の宣教師たちが、それぞれに与えられた宣教の地に出ていく前にあることを同意しました。それは、鹿狩りの季節の最初の日に狩りに一緒に出ようというものでした。彼らは何年かの間、これを果たしました。
ある年、彼らが狩りに出て藪をかき分けて進んでいくと、非常に大きな熊が野イチゴをむさぼり食べているのに出くわしました。熊は彼らの物音に気付き、ぬっと立ち上がり彼らを見つめ、仲間の方へと向きを変えていきました。彼らは直ちに恐ろしくなりました。「どうしよう?」一人が言いました。「熊を撃つんだ!」「できないよ」もう一人が言いました。「この地区では熊は保護されていて、違反すると罰金100万円なんだ!」もう一人が言いました。「走れ、走れ、走れ」
彼らは身を守るために林の中を目指しました。彼らは熊が息をするたびに出す唸り声を耳にしました。「どうしよう?」一人が聞きました。「祈ろう!」というのが即答でした。彼らはその途中で立ち止まり、次の祈りを口にしました。「天にいますわが父よ、どうかこの熊たちをクリスチャンにしてください。アーメン。」
そしてその熊たちは途中で立ち止まりました。二人の宣教師たちには熊の唸り声はもはや聞こえませんでした。彼らはゆっくりと振り返り熊を見てみました。その熊は地にひざまずき、その大きな腕を祈るように合わせて静かにしていました。そして彼らは熊たちがこう言っているような唸り声を聞きました。「天にいますわが父よ、私がこれから食べようとする食べ物を祝福してください。アーメン」
このお話の示すものは、自分が何を祈るか気をつけなさい、さもなくばその通りになります、ということです。
私が40年間の宣教生活で学んだ一つの事は、祈りの力を軽く見てはならないということです。私たちの、自己中心的な傾向と懐疑的な心は祈りの中に織り込まれてしまいがちなのです。私たちは、全てを思うままに行い、その通りにしたいと思うのです。しかし、思い通りにならない時に何が起こるのでしょうか? 自分のできる範囲を超えて、さらに大きな危機や何かの必要が生じたらどうなるのでしょうか?祈りは神がそこに関わるようにするのです。祈りは私たちを限られた人間のもつ潜在能力よりもはるかに高い潜在的な力へと導くのです。
ある人は神は祈りに三つの方法で答えると記しました。「Yes、No、そしてかつがれた!」皆さんは、私たちの祈りが神にとってどのように響くか想像したことが有りますか? 私は、我々の祈りに対する神の答えはYes、No、ゆっくり、成長しましょう、といったあたりだと思います。そうです。神は祈りにこたえる神です。私はそれを信じます。しかし、私たちがNoの答えを手にした時、成長しましょうとかゆっくりと言われた時、私たちは天の父が最善を知っていると信頼する必要があるのです。私たちには神の御手が見えない時、彼の品格を信頼するのです。No、ゆっくり、成長しましょう、といった答えで自分の祈りの人生をダメにしないようにしましょう。
以下にライフスタイルと成長の過程についての祈りがあります。「愛する主よ、今日のところは、私は全てを正しく行いました。私は噂話をせず、感情に任せて怒らず、貪欲ではなく、不愛想ではなく、意地悪ではなく、わがままではなく、自分を甘やかしすぎませんでした。私はそれに感謝します。しかし、ほんの数分間だけ、私はベッドから起き上がりました。そして私はもう少し多くの助けが必要なのです。アーメン。」
他の多くのもののように、キリスト教は自分がその通り生きるよりも簡単に話をできるものですよね。簡単に教会に行けます。教会になることは大変です。聖書の通りに生きることは大変です。キリスト教を知っていることと、それを実践することの不一致は他の人々からみたら馬鹿げていると見えるのです。だから、クリスチャンたちは偽善者だと言われてしまうのです。
真実は人は自分の知っている聖書の通りに生きることに苦しむということです。全てのグループは偽善に満ちており、それは人の振る舞いというものは、自分たちがどのように生きるかということを最初に学び、徐々にそれに沿って統合されていくからなのです。知識は頭から始まり、そして心へと移り、最後には足へと向かうのです。足と心の距離というのは世界で最も遠い距離なのです。自分の知っている考えというものは、自分の人生に常に現れる振る舞いへと統合されていくのです。それは何か一度起きる事象ではなく、一つのプロセスなのです。そして、それは全ての人に言える事であり、教会の人だけではないのです。
自分が知り、そうしたいという望みは「信じているもの」というべきものです。常に行うものは、価値観です。例えば、自分がフライドポテトやポテトチップを食べるべきではないと信じているとしましょう。私はフライドポテトが炭水化物の塊で、飽和脂肪に漬けられて煮たてられたものであり、欠陥を閉塞させるものだと信じています。さて、私にフライドポテトを食べるか聞いてみるとします。もちろん、食べます。お分かりでしょう。私は「信じているもの」がありながら、それは価値観になっていないのです。どれだけ偽善でしょうか?しかし、私たちが知ると同時にそれに沿った行動を常にとるようになるとすると、「信じているもの」は価値観へと変わることになります。
私たちは常に発展途上のものなのです。私たちはお互いにこの点について少しの恵みを与えられるでしょうか? そして、それに加えて、もし偽善が自分と神の間に立っているなら、偽善は私たちよりも神の側に近いのです。私たちが他人を批判的になりがちなのは、自分自身を他人の中に見ているからなのです。
さあ、皆さんはいくつかの祈りについての知恵を手にしたのであり、祈りが自分の人生を良くするようにするのです。つまり、私は皆さんが熊に追いかけられて走り回ってほしくないのです。
エド・デルフ/Ed Delph November 18, 2019 CCC
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