私たちのお気に入りの色眼鏡と見ているもの
- Ed Delph

- Mar 1, 2020
- 6 min read

あるイギリスの全国紙が読者にイギリス的とは何かという問いかけをしました。以下に12年間英国に住んでいたスイス生まれの方からのコメントがあります。
「イギリス的であるとは、ドイツ製の車に乗って、アイリッシュパブに乗り付け、ベルギー製のビールを飲み、家に帰る途中でインドカレーかトルコのケバブを買い、スウェーデン製の椅子に腰かけ、アメリカンショーを日本製のテレビで見ることだ。そして最も英国的であるとは、すべてが外国製であることに気づくことだ。」
イギリスの話のように、私たちは、他人の在り方よりも自分たちの在り方を見る傾向にあります。私たちは物事を自身の経験、心の傷、政治的視点、偏見、先入観、国籍、所属団体などを通してみる傾向にあるのです。しかし、私たちが見つめているものが本当に自分で見ているものではないとなった時に私たちに何が起こるのでしょうか? 何かや誰かを自身の好み、バラ色の色眼鏡を通して見つめていて、その誰かや何かを本当にある姿と近いものではないことにより裁いてしまっていた時に何が起こるのでしょうか?
多くの場合、私たちの現実と本当の現実には違いがあります。ちょっと説明させてください。ある若いカップルが新しい場所に引っ越してきました。翌朝、彼らが朝食をとっていると、その若い女性が近所の人が洗濯物を外に干しているのを目にしました。「その洗濯物はちゃんときれいになっていないわね。」彼女は言いました。「あの女性はどうやって洗濯物をきれいにするか、ちゃんと知らないのね。多分、もっと良い洗濯洗剤を使えばよいと思うけど。」その近所の人が洗濯物を干す度に彼女は同じことを思いました。
およそ一か月ほどたってから、その女性は素晴らしくきれいになった洗濯物が一列に干されているのを目にして、夫に言いました。「見て、あの女の人はどうやって洗濯物をきれいにするか、分かったみたい。誰が彼女に教えたのかしら。」夫は言いました。「僕が今朝、早起きして窓をきれいにしたんだ。」
私たちの窓が汚れているときは、簡単にモグラの作った小山が大きな山に見えてしまうものです。私たち自身が実は自分こそが変わらなければならないことを知らないでいる時、周囲の全員を変えようと思うことは良くあることです。以下に私のアドバイスがあります。私たち自身が誰かを変えようとするとき、自分を変えることがどれだけ大変かを思い起こすのです。誰もが前に向いて新保したいと願うのですが、誰も変化は望まないのであり、特に自分自身についてはそうなのです。
汚い窓の問題は私たちが嫌味っぽくなったり、疲弊することなのです。私たちは全ての事実を知らないままに、欠点を見るのです。H. L. Menckenはこう言っています。「皮肉っぽい人とは、花のにおいを嗅ぎつけたときに、棺を探す人のことだ。」言い換えるなら、自分が食べているものが自分の健康を決定づけるのではなく、自分を食い尽くしているものが自分の健康を決めるということなのです。肩の上に木片があれば、上の方に木がある証拠です。昇華しない怒りは、誰かに転嫁する怒りになるのです。自分に食いついているものが、自分の視点と視野を決めるのです。
ある人はこう言っています。「思いだしてください。自分に満足しない人々だけが他人に対して意地悪いのです。」そこにはある真実があります。多くの場合、非難された人よりも、非難した人自身が傷つくのです。
これは私たちが悟りを捨てたり、何かが本当に変化したり正されなければならないときに口を閉ざすという意味ではありません。しかし、私たちが最初に自分自身を吟味し、他人を色眼鏡を通して裁く目線で見ないように私たちの魂の窓をきれいにすることを心がけましょう。
聖書はこのことについて知恵を会えています。「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトスへの手紙1:15) 言い換えるなら、清いものにはすべてが清いのです。清くないものには、すべてが清くないのです。汚れた窓は、多くの気の毒な人々をダメにしてきたのです。
どうやって精神的、感情的な不浄さから解放されることができるのでしょうか?どうやって自分の魂を清くすることができるのでしょうか? その第一歩は自分を良く顧みることであり、他人を見つめることではないのです。自分の眼鏡をはずし、自分を見つめてみましょう。皆さんの多くは、聖書に出てくる自分の目の中の梁と他人の目の中の小さなちりの話をご存知でしょう。以下に口語訳による現代語でのお話があります。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイの福音書7:1-5)
第二に、すべての人と全ての事を自分のお気に入りの色眼鏡を通して見つめ、色あせている他人の言葉に耳を傾けることをやめましょう。色あせた人は、人々を色あせたものにするのです。意図してか意図せずか、騙されている人は、意図してか意図せずか人々を騙してしまうのです。彼らの問題と心のキズは、彼らを「その話をすり替えろ」へと駆り立てるのです。そのような集団や人々とは私たちに対して話しているのではなく、私たちに顔を向けて言葉を発しているに過ぎないのです。そこには議論したり、譲り合ったりする余地はないのです。それは一方通行であり、自分の道しかないのです。もしそれに同意しないとなると、彼らの上から目線の決まり文句は「あなたは単に理解できないだけだ。」なのです。
私が今までこのエッセイで何度か述べた通り、自分が傷ついたものから回復しない限り、自分を傷つけてもいない周囲の人々に血を振りかけて回るようなものなのです。私たちは彼らの痛みを感じることはできますが、それを取って代わることできないのです。そしてその人はその痛みを無実の他人へと与えてしまうのです。ところで、騙されていることの最悪な問題とは、自分が騙されていることです。
おわかりでしょう。世の中は鏡のようなものであり、何かを映し、自分にそれが映って見えているのです。それに向けてスマイルを見せれば、スマイルが返ってくるのです。そしてこれをわかってください。以前は不浄だったけれども自分の窓を洗い清めた人々は他の人々を清めるのです。窓ふき洗剤が手に入ったので、もっとよく見えるのです。
エド・デルフ/Ed Delph March 2, 2020 CCC
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