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私たちではない孤立した島々

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Sep 4, 2021
  • 7 min read

毎朝アフリカで、一頭のガゼル(シカ)が目を覚まして考えていました。チーターの中でも最も足の速いチーターより早く走らないと、死を意味することを知っていました。毎朝、一頭のチーターが目を覚まして考えていました。最も足の遅いガゼルに追いつけなければ、餓死することを知っていました。皆さんは、ガゼルかチーターのどちらであろうとも、朝が来たら走らなければならないのです。

この面白い例え話は、私たちに二つの世界があることを気付かせるのです。チーターの世界とガゼルの世界の二つです。二つの世界はどちらも同じように価値があるのですが、全く違う視点に立っているのです。この二つのせかいは「どちらか/又は」ではなく、「両者共に/いづれも」なのです。ガゼルが「自分の世界だけがこの世の全て」と言う思いで生きるのは賢いことではないのです。チーターの世界の現実を無視するガゼルはチーターの欲しがっているもの、つまりガゼルバーガーを作り出すのです。

「ガゼルは金星の生き物、チーターは火星の生き物」と言う本を書きたくなる人もいらっしゃるでしょうが、現実は両者共に地球の生き物なのです。彼らは、それと直面して生きることを学ばなければならないのです。一人一人が他人の世界とともに毎日走らなければならないことを理解して毎朝起きるべきなのです。つまり、全ての世界は交錯しているのです。


イエスは「どちらか/又は」の世界よりも、「両者共に/何れも」の世界について、私たちに対して語りかけています。イエスが示し現した事の中で、特に信徒たちに向けてあるべき姿として示したことについては絶対的な真実が含まれており、そしてその絶対的な事がらは大切な領域についてであり、一般にそれを明確にしているものなのです。私は世の中の生活とキリストの教えの混ざり合いや混同について語っているのではありません。私はキリストの心を持つことから来るより大きな視点について語っているのです。


霊的信仰的な世界があり、実際の自然の世界があります。両者は交差しているのです。創造主の現実の姿を無視することは、創造を無視することになるのです。神がいない、神を無視する、神をディすることは、チーターはいないふりをするガゼル、チーターを無視するガゼル、チーターを軽蔑するガゼルのようなものです。それはガゼルに最悪の結末をもたらし、チーターに素晴らしいご馳走をもたらすことになるのです。

ここに「両者ともに/いずれも」的な視点の例えがあります。イエスはライオンと呼ばれ、羊とも呼ばれていますね?さてここに皆さんに提示したい逆説があります。どうやって彼はその両極端、つまり強いものであり弱いものでもあり、力溢れるものであり静かなものに同時にあり得たのでしょうか? 本当に彼はその通りだったのです。彼は一方の極端から他の極端へと時に応じて変わることができ、その極端な姿の中に妥協は一切ありませんでした。ライオンと羊の両方は神の世界の中にいるのです。


神は多くの顔を持っています。「私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。」(黙示録14:2) 神は愛(Iヨハネ4:16) 神はエロヒム 三位一体、父、息子、そして聖霊なのです。友よ、それはパラドックスなのです。神の世界と私たちの世界は七つの大陸があり、一つではないのです。週に七日あり、虹には七色があり、楽譜には七つの音階があるのです。イスラエルを作った部族は12であり、一つだけではないのです。神は「両者ともに」思考の妙を示すように世を作られたのです。神は、一見して反対の視点を統合し、神の世界の不思議と複雑さを解き明かすようにしたのです。


二元論者或いは「どちらか/または」式の思考にこだわっている人々はこのことで苦しむのです。二元論者は殆んどすべてのことを対立関係で見ます。私たち/彼ら、勝ち/負け、正しい/間違い、どちらか/または、「オレ、ターザン、お前、ジェーン」或いは昨今の世の中なら「ワタシ、ジェーン、アンタ、ターザン」。しかしキリストの思考はこうではないのです。


説明させてください。15年前、私は15人乗りのバンを借りて、私たちの中学生の子どもたちを連れて、あるミニストリの旅行に行きました。旅をしていると、後部座席を覗くと、全ての中学生たちがイヤホンをつけてお気に入りのCDを大音量で聞いていました。誰も会話をしていません。それぞれの中学生はバスに乗っているのですが、お気に入りの音楽を聴きながら、目は宙を見つめて頭が前に向いているだけでした。


この出来事は、私に現在の世の中を想起させます。この中学生たちのように、私たち全員は一緒に旅をしているのですが、両極化し、自分の音楽、テーマ、社会的要因、強調すべきことだけを聴いているのです。もし私たちが、自分の「こと」が決してすべてではないと理解するなら、理由や抱える問題は何も悪いものではないのです。自分は正すことができるのであり、自分は部分的に正しいかもしれないし、バランスを欠いているかもしれないのです。自分の周りに存在する他のことや他のテーマは、自分が何をしたいか考えるべきことに影響するのです。


「両方/ともに」の妙を私たちの今の世の中の問題に当てはめてみましょう。


聖書の中に出てくる、神の「両方/ともに」式のコンセプトの何百もの例えの中のいくつかがここにあります。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16) 「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28) 「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』(使徒2:17) 「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」(エペソ6:5-9) 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14) 「また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、」(Iコリント15:40) 「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(Iコリント15:53) 「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、」(黙示録5:9)


これらはいずれも対照的な視点で、お互いを補完する視点で見つめています。反対のものは引き付けあうのです。人は賢ければ、違いに折り合いをつけるのです。これを考えてください。私たちの違いは消えることはありませんが、敵意は消えることがあるのです。他者の粗削りな部分は、自分を磨くことになりえるのです。同じボートの誰かが座っている側を沈めておきながら、自分の側を浮かせ続けることはできないのです。


「どちらか/または」の発想の恐怖から離れて、それが非合法だったり非聖書的ではない範囲で、「両者/いずれも」の発想に昇りましょう。何故でしょうか? 憎み始めた時、考えるのを停止するからです。その道はあなたの目の前にあります。手にしましょう。



Ed Delph/NATIONStrategy

7145 W. Mariposa Grande Ln.

Peoria, AZ 85383 USA

623-363-9961 * Fax 623-537-1446

www.NATIONStrategy.com

"People Who Empower People To Transform Communities'


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