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熟考が私たちのゲームを勝ちに導くサーブを良くする 2019.10.4(J)

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Oct 6, 2019
  • 5 min read

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熟考が私たちのゲームを勝ちに導くサーブを良くする

私がこれを書いているのは人々をより良い人生のために備えさせるためです。どうやって? 人生というテニスの試合でのサーブを良くすることによってです。テニスが聖書にあったと知っていました?聖書はこう書いています。「Moses served in Pharaoh’s court」。2005年に私がコラムに書いた話を新鮮な気持ちで振り返ってみましょう。

このお話は共に育った仲の良い友人を持つアフリカの王のお話です。その友人は人生において起きた全ての状況を(それが良い出来事だろうが悪い出来事だろうが)「これは良い」と言う習慣がありました。

ある日、その王と友人は狩に出かけました。その友人は王の為に銃に弾を込める事になっていました。その友人は弾を込める時にミスをしてしまい、王が友人から銃を受け取り引き金を引くと暴発して親指を失いました。その状況を見て確かめて、友人はいつもの様に言いました。「これは良い」。これに対して王は応えました。「いや、これは良くない!」 そしてその友人を牢獄に入れました。

一年ほど後、その王はそこに立ちるべきではない場所にうっかりと入って狩をしていました。人食い人種が彼を捕らえて、その村へと連れて行きました。彼の手を縛り、薪を積み上げ、横棒を渡して彼をそれにくくりつけました。

彼らが薪の側に来た時、その王は親指がない事に気づきました。言い伝えにより、彼らは体の一部が欠けたものは食べてはいけない事になっていました。そして彼らは王の縄をほどき、家路に帰しました。王が家に帰り着くと、親指をなくした経緯を思い出し、その友人に申し訳ないと思い始めました。

彼は直ちに牢獄に行き、その友達に語りました。「君は正しかった。」彼は言いました。「親指が吹き飛ばされて良かった。」彼は友人に何が彼の身に起きたのかを語り始めました。「そして、君をこれほど長い間、牢獄に入れて申し訳なかった。こんなことをして申しわなかった。」「いいや」友人は答えました。「これは良い!」「『これは良い』とはどういう意味だい? 私が君を一年も牢に入れてどうして良いなんて言えるのだ?」これに対して友人は答えました。「もし私が牢にいなかったら、私はあなたと同行していたでしょう。」

もし自分が王だったらどうしていたでしょうか? もし私のような方であれば、先ほどの王のようにふるまっていたでしょう。「この男は私の指を吹き飛ばした。彼は私の人生を台無しにした。彼はこの代償を支払わなければならない。彼を牢に入れろ。話は終わりだ。これは何も良いことに至らない。」しかし、先ほど見たように、それはお話の終わりではなかったのです。それは単なる次の話の始まりだったのであり、人生というテニスゲームのサーブを良くしたのです。

先ほどの王のように、何か信じられないこと、恐ろしいこと、予期しないことが私たちの身に起きたとき、私たちは怒り(あるいは親指を下に向ける)ことに屈するのです。自分の身に起きたことに対して何も深く考えないことは、いつかはより高貴な、あるいは良い目的の為に働くのであるものの、私たちは行動するというよりも反応してしまうのであり、時として自分の手にした不利益だけにそうしてしまうのです。人生はテニスの試合のようなものです。最初の3セットを負けで始めても、ゲームが終わりであることを意味しないのです。

特に、先ほどの王の話は古いコマーシャルが現実的であることを思い起こさせるのです。「ちょっと待ってくれ! まだ続きはある!」親指を失うよりも危機である、死に直面した体験において、この経験は彼により大きな全体像を示したのであり、話を超えた話、理由を超えた理由を示したのです。

その王は昨今の人々がしないことをしました。彼は友人に対する自分の振る舞いを振り返ったのです。彼は自分の人生の経験を違った視点で見たのであり、それは思考の力にほかなりません。彼は自分の道を考えたのです。彼は、自分は悪い出来事だと思っていたことを、良きものであったと考えたのです。彼はあら捜しをするものではなく、良いこと探しをするものになったのです。彼は被害者からチャンピオンになったのです。そして、彼はそれに対して何かを実行したのです。考え抜いた後、彼は友人のところに戻り、赦しを乞い、それを受け取ったのです。

彼の友人は王がしたことと同じことをすることができました。彼は自己憐憫に陥ることもできたでしょうし、自分を責めることもできたでしょうし、「彼が私の人生をダメにした、いや自分で自分の人生をダメにしたんだ」等ということもできたでしょう。彼らの最後の言葉は素晴らしいものがあります。「もし私が牢にいなかったら、私はあなたと同行していたでしょう。」

熟考が生み出すものに気づいてください。熟考がなければ、私たちはlose-loseに陥るのです。王と友人の双方が、そのサーブとゲームを失うのです。しかし熟考と共に、王と友人は回復されました。その友人がwin-winになるために何をしたのでしょうか?「これは良い」です。これは私たちのサーブも良くするものなのです。

考える能力と力は私たちにとってのパワフルな同盟です。それは私たちを落ち着かせるのです。それは私たちに力を与えるのです。それは私たちの人生を良くするのです。そこにアクセスしましょう。

熟考とは何でしょうか? 熟考は長い時間の上に成り立つ注意深い思いです。私たちが何かを判断したり、決定することにおいて何かの事実や方向性を考えに含める事です。他人に対する思いやりと敏感さを含むものなのです。熟考に関した他の言葉は内省、学ぶ、慎重に討議する、計画の考慮、留意する、温情、思いやり深さ、気配り、気遣い、礼儀正しさ、親切さ、そして寛大さ(オックスフォード辞書)。

昨今、文化の創造者たちが、目にするもの、聞くもの、感じるものすべてに対して直ちに、しかも感情的に反応することを望んでおり、それは先ほどのお話の王のようなものです。そこに陥ってはいけないのです。手にするよりも、多くを失う結果になるのです。熟考について再考してみましょう。それは私たちとその仲間、私たちのサーブに対するゲームチェンジャーなのです。

エド・デルフ/Ed Delph October 14, 2019 CCC

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