正装をしてどこか良いところへ
- Ed Delph

- Jun 11, 2022
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ビリー・グラハムは、この出来事が実際に起きた時、92歳でパーキンソン病を患っていた。2000年の一月、ノースカロライナ州シャーロットのリーダーたちは彼らの愛する男、ビリー・グラハムを称えるためにランチに招いた。彼はパーキンソン病を患っていたのでこの招待を嫌がっていた。しかし、シャーロットのリーダーたちはこう言った。「私たちは何か大きなことを期待しているのではありません。ただ来ていただき、私たちにあなたを労わせてください。」そして彼は行くことにした。
最初の称賛の言葉の後、グラハム氏は講壇に上がり、会衆を見まわし、こう言った。「私は今日、最も偉大な物理学者で、今月のタイム誌に世紀の男と称賛されたアルバート・アインシュタインを思い出します。」
アインシュタインはプリンストンから列車に乗った。車掌が乗客一人一人のチケットを改札して周りはじめた。車掌がアインシュタインのところに来た時、アインシュタインは上着のポケットに手を伸ばした。彼はチケットを見つけることができず、ズボンのポケットに手をばした。そこにもなかった。彼はブリーフケースを探したが、そこにもなかった。そして彼はシートを見まわしたが、そこにもなかった。
車掌は言った。「アインシュタイン博士。私はあなたが誰か知っています。我々皆があなたが誰か知っています。チケットを買ったのは間違いないと思います。気にしないでください。」アインシュタインはありがたく思い、うなずいた。車掌はその車両の中を続けて改札して回り、次の車両に移ろうとした時、偉大な物理学者が床に手と膝をついて、シートの下にチケットがないか探しているのが見えた。
車掌は急いで戻り、こう言った。「アインシュタイン博士、アインシュタイン博士、私はあなたが誰か知っています。問題ありません。チケットは見せなくていいんですよ。あなたが買ったことはわかっていますから。」「若い方、私は自分が誰か知っている。私が分からなくなっているのは、自分が今日これからどこに行くかだ。」ビリー・グラハムはスピーチを続けた。
「私が着ているスーツを見てください。これは真新しいスーツです。私の子供たちや孫たちからは、私は年を取ってやや汚らしい恰好をしていると言われました。私はもっと、おしゃれでした。ですから、私はこのランチとその先のもう一つの機会のためにこのスーツを買いました。その機会とは何かご存知ですか? このスーツは私が埋葬されるものです。しかし、皆さんが私が死んだと聞いた時、今日来ているこのスーツを思い出してほしくないのです。その代わりこのことを思い出してほしいのです。私は自分が誰かを知っているだけではない。私はこれからどこへ行くのかも知っている。」
私たちの多くはビリー・グラハムに同意します。「神のない人生は、先の丸まった鉛筆のようだ。ポイントを持っていないからだ。」
私たちがビリー・グラハムから貰うことのできる教訓があります。私たちは一時的な霊的精神的体験をしている人間ではないのです。私たちは一時的な人間としての経験をしている霊的精神的生き物なのです。
この死にゆく現代文化のインフルエンサーであり、ビリー・グラハムに同意しないであろう人による言葉があります。「私は死が嫌いだ。実際、私はそれなしに永遠に生きることができたはずだ。」「私は永遠に生きようとした。それなりに、ほど良く。」「私は死を恐れているのではない。それが起きた時、そこに居たくないだけなのだ。」
もし悪魔が本を書くなら、そのタイトルは「あなたは一度だけ生きる」でしょう。カーテンのこちら側の人生は一時的なものであることを理解してください。そしてカーテンの向こう側の人生は永遠であることも理解してください。ビリー・グラハムは終わりは単なる変装の始まりでしかないと理解していたのです。彼は自分が誰で、どこに行こうとしているのかを知っていたのです。
時として、一つの扉が閉じると、別の扉が開くのです。しかしそれ以上に、閉じていく扉を残念そうに見つめ、新しい扉か開くのを見ようとしないのです。Robert Millikanは以前、こう言いました。「私たちはある所からきて、ある所へ行くのです。宇宙の偉大な建築家はどこにも行かない階段を作ったりはしないのです。」
死は変化以外の何物でもありません。それは何かより良いものへの最後のステップです。しかし、たわしたちは最初のステップ(地)を踏み、最後のステップ(天)を踏む必要があるのです。死とは人生のストーリーのピリオドではなく、コンマなのです。
死ではなく生があると信じるには、信仰が必要です。信仰とは疑いを持たないことではなく、信じることを心に持つことなのです。信仰とは、証拠に反抗することではないのです。それを超えることなのです。神は真実にしては虫がよさすぎるような約束は決してしないのです。
Dwight L. Moodyはこう言いました。「死は恐ろしいものかもしれない。・・・しかしイエスは王の中の王である。」Moodyはこうも言っています。「私たちはあまりに遠い天国の話をしている。天国とは、そこに属している人にとっては声が届いて会話できるほどの近さなのだ。天国は、備えられた人のための、備えられた場所なのだ。」
自分がどこに行くか知らずに、死に装束をまとわないようにしましょう。
A.W.Tozerはこう言っています。「信仰は聞く耳に最初に来るのであり、考える思考に来るのではない。」聖書は、信仰はイエスに関する神の言葉を聞くことからくるのであり、その言葉はイエスが救いということだと述べています。そして信仰は歯ブラシのようなものです。誰もが一つ持っており、毎日使うものであり、誰か他人の物を使うべきものではないのです。ビリー・グラハムはそのような信仰を持っており、私たちもそのような信仰を持つことができるのです。
私たち一人一人が信仰に満ち満ちた人生を歩みますように、私たちのチケットが改札されたとき、自分がどこに行くのか心配しなくてよいように。父親たち、父の日は父親の中の父親を家に招いた時、最も幸せな日になるのです。それはあなたを良くし、助けるのです。
エド・デルフ/Ed Delph/June 13, 2022/CCC
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