期待とのギャップに注意する
- Ed Delph

- Aug 28, 2021
- 5 min read
Updated: Mar 29, 2022
先週、私たちは次の等式に基づいて私たちが人生を歩むときに何が起きるかについての2週続きのお話をはじめました。; 期待-現実=幸せ。ですから誰かの人生が期待していたよりも幸せなら、その人は幸せなのです。しかしその人の現実が期待よりも下だと判明した時、彼らは不幸なのです。
私たちは多くの人々が相当な大きさのギャップを、自分の人生において期待していたところと、自分が現在いるところの間に持っていることを見出しました。彼らは自分で仕事や何かに応募し、一生懸命働き、しかし自分が期待していたところにはたどり着かなかったのです。これが起きた時、多くの人はあきらめるか、傷、落胆、フラストレーションといったものを和らげるためにお世辞にも立派とは言えない執着に駆られるのです。
私が言おうとしていることの一つの例を話しましょう。私は1980年からアリゾナ州フェニックス地域の牧師をしています。最近の20年ほどは世界中の牧師たちを牧しています。私が牧師たちに伝えている最も共通している問題は、彼らの期待なのです。牧師がミニストリを始める時、彼らは何千人もの人々の教会、大きな会堂、世界中に向けて話を広めることなどを期待します。しかし25年後には、彼らは100人ほどの教会を、希望もなく、最初の期待に達することもなく、疲れ果てて牧しているのです。では、ここからどこへ行くというのでしょうか?
願わくば、この二回続きのお話が自分の夢、ゴール、望みなどを全く成就したこともない人々に現実的な視点を与えることを願っています。ですから、新しい、より正確な人生と成功についての視点を探しましょう。
英国での言い回しのところの“Mind the Gap.”を学びましょう。このコンセプトが自分に当てはまると思うなら、自身の手錠を外し、自分を楽しめるように自由にし、人生を意義あるものにする、次の真実について考えてみてください。
第一に真の成功についての定義を神にゆだねましょう。自分の幸せの基準となる成功の意味を、私たちの恥に基づいた、成果主義の社会の価値観に決めさせてはいけないのです。神の定義する成功とは、自分自身、家族そして他人に対して、ビジネスの場だろうが、コミュニティだろうが、教会だろうが、平和な人になることです。
以下に平和と充実についてのいくつかの古い知恵があります。「しかし本当に信仰深いということは、充実感を持った時に、何か素晴らしいものを手にするための手段だ。なぜなら私たちは何も持たずにこの世に来たのだから、私たちは何も持たずに世を去らなればならないからだ。」お分かりでしょう。平和は解放をもたらすのです。私たちは他人に対して競争しているのではなく、些細な仕事の成果や非現実的な夢を競っているのでもないのです。私たちは自分自身に対する忍耐の競争をしているのです。ゴールにあるものは、充足感です。自分に対する平和、神に対する平和は他人との平和につながるのです。強く終えるのであり、間違えて終えるのではないのです。
第三に神と自分自身の間で共有できるビジョンを持ちましょう。信じたり夢を再び追うことに恐れないでください。大きく、大変で、大胆なゴールを持っても良いのです。ただし、そのゴールの成否が自分を定義しないようにするのです。それに全てを捧げながらも、次を忘れないでください。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩編127:1) 自分が何者であるのかということと、自分が何をしている、或いは何を成し遂げたということを混同しないでください。ゴールは進む方向を与え、夢は動機を与えるのですが、期待していたゴールにたどり着かなかったとしても、それはそれで良いのです。ある人は持っていた期待を実現します。ある人はそうではありません。それで良いのです。もし挑戦したのなら、それで良いのです。
成功と失敗を組み合わせることを学びましょう。もし背後を固めてもう一度見まわすなら、自分が成功できそうな他の領域があるはずです。世の中(恥、名、名声、非難)にその型枠に自分を押し込ませるようなことは、させないようにしましょう。自分は神の職人技により創られたものであり、神はあなたをゴミにはしないのです。神がピリオドを打ったところに、クエスチョンマークを打たないようにしましょう。
私たちの幸せと成功についての視点はアップグレードが必要です。人生をこう考えましょう。「私は幸せの定義において間違えていた。私はできる限り頑張った、私は人生を誠実に生きた、そしてそれは実を結ばなかった。私は残りの人生を自分が期待していたところに到達しなかったからと言って、自分の大切なエネルギーを何故だと問いかけたり、自分や他人を傷つけたりすることに用いたりはしない。私は決して終わることのない「ああだったら、こうだったら、こうすべきだった」という声のオーディオの無限再生には陥らない。」恐らくは、私たちの持つべき期待というものは神から来るべきであり、決して自分自身や文化から来るものではないのかもしれません。
第四に人生という試合に戻りましょう。戦場で負傷したり行方不明になることはあり得ることです。しかし敵につかまったり、敵に降伏することとは別のことなのです。神のトロフィーが並ぶ栄光の殿堂とは、高い出席率、売上実績、その他の固定観念よりも、信仰深さと誠実さにより建て上げられているのです。ダビデは外見は小さな男でした。ノアは120年間、メッセージを語りかけ続けたものの救えたのはわずか7人でした。しかしこの二人はいずれも平安を持っていました。
多くの場合、世の目で成功した人々は、私たちの目には見えない領域でその代償を支払い、平安や満足がないところに終始しているかもしれないのです。それは彼らの現実のギャップです。これらの成功の偶像とは、私たち一人一人が持つことのできる満足を得るためのものを何一つ与えないのです。
忘れないでください。神はその仕事を成すのであり、私たちにはそこに加わることを許すのです。人生は私たちが主人公のショーではありません。神のショーなのです。満足と共にある平安とは、私たちの人生を神の意志に丁寧に合わせていくことなのです。自分が競争を終えて聞きたい言葉とは、聖書にあるのです。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:23)
Ed Delph August 30, 2021, Part 2 CCC
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