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憎み始めたとき、思考は停止している

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • May 6, 2019
  • 5 min read

Updated: May 7, 2019

レオナルドダビンチがその素晴らしい作品である「最後の晩餐」の制作をしている時、彼は自分の憎んでいる人の顔をユダとして描きました。そして彼がイエスの顔を描こうとした時、彼は何度も何度も描きましたがうまく行きませんでした。そして、彼が人でいた人の顔を消し、別の顔をユダの顔として描いた時、ようやく主の御顔の表情を描くことができました。お分かりでしょう。彼の憎しみが、彼とその成し遂げようとしていた仕事の間に死点を生み出していたのです。彼の類稀なるその才能が史上最高傑作と言われる作品を生み出す前に、彼のその男への憎しみは正しく取り扱われなければならなかったのです。

今日は私たち全員の周りに存在するある問題について話したいと思います。これは社会の雰囲気の中に深く根差しているものです。それは憎しみです。もし私たちが現在の世の中に存在する憎しみという気候の変化について認識しないなら、私たちはそのようなものになってしまうのです。

正直に言って、私は憎しみについてここで書くのは嫌なのです。私は自分の話は前向きで希望に満ちたものでありたいと思っています。しかしこの点は大切なのです。誰もネガティブで、分裂を煽ることを絶え間なく述べることは好まないと、皆さんは思うかもしれません。しかし、メディアのレーティングデータを見ると、違う姿が見えます。今日においては、憎しみ、対立、葛藤、戦争というテーマは、愛、真実、一致、そして平和というテーマよりも売れるのです。憎しみはメディアの売り上げを増加させるのです。そして憎しみは人間関係、人々の集まり、国、理解を破壊するのです。憎しみは「我々- 彼ら」、「勝者 - 敗者」、「正しい - 間違い」という敵対的な気候を生み出すのです。憎しみは、線を引き、分断し、差し引いていくという征服のプロセスであり、増し加え増やしていくことではないのです。

憎しみが増すに従い、愛は減っていくのです。イエスは、人々の愛が冷め、憎しみが熱さを増すようになる将来にして解き明かしています。「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

次の順序について着目してください。違いを持っていたながらも隔てて付き合っていた人々が互いに裏切るのです。これが憎み合いを生み出すのです。そしてそこにニセ預言者の声が現れ、間違えた方向へと導き、憎しみの炎に油を注ぎ、良いものを悪いものへと変え、等々です。そして無法状態となり、その心の思いは終末の時に裁かれることとなるのです。自分ではないものを憎むようになるのです。そして、多くの人々の真実の愛は遠くへと去って行ってしまうのです。

皆さんは、憎しみが私たちの脳の中に生じたときに、起きる脳の実際の変化についてご存知ですか? 以下に2014年10月にThe Daily Explainer誌に寄稿したEsther Inglis-Arkell氏の言葉があります。それは「Here's What Your Brain Is Doing When You Really, Really Hate Someone」(誰かを心から憎んだ時に脳が実際に行うこと)というタイトルです。

「科学者たちは、私たちが誰かを憎んだ時に脳の一部が活性化することに着目しはじめています。2008年に、果たして憎しみの感情はある生物学的な一貫した性質に根差すのかどうかという点について調査する研究に科学者たちは着手しました。被験者たちは自身が中立的な感情を抱く人物の写真をまず最初に凝視するように言われます。そして被験者たちが憎む人の写真を見せられるのです。この試験は被験者をMRIの中に入れて行い、研究者たちが脳のどの部分が活性化するのか、どの部分の活動が停止するのかについて調べるのです。ゼキ博士とロマヤ博士は、被験者全員が個人を全く同じように憎む結果が得られ満足したのです。

脳の一部、「憎しみの回路」として知られる内側前頭回、右側被殻、右島、前運動皮質が活発化しました。前運動皮質は人が攻撃的な感情を感じたときに即座に動き出す脳の部分です。私たちが憎むとき、少なくとも私たちの体の一部は肉体的な攻撃の準備に入るのです。前頭回は自己認識をつかさどっており、行くべきか、行かないかの判断をする部分です。被殻は人が愛情を感じる時に関わりますが、しかし人が嫌悪や軽蔑を感じる時にも関わります。被殻はさらに人が攻撃的な行動を計画する時にも活発化するのです。

憎しみとは脳の中で活発化する部分だけで形成できるのではありません。非活動域も関わるのです。上前頭回は自己認識と笑いに関わる部分であり、人が憎しみを感じたときに活動しないのは驚くにはあたりません。この活動を停止する部分は、実は活動を停止すると強迫観念症のような行動を増加させる部分の近くなのです。私たちが憎しみを抱くとき、私たちは笑いを忘れ、少し強迫的になるのです。」言い換えると、私たちが憎み始めると、理論的に考えることをやめることになるのです。

憎しみによる負の報酬があります。憎しみを抱くなら、私たちは自分が目にする全ての人と物を憎む、レオナルドダビンチの絵の人の顔のようになるのです。私たちは強迫的になるのです。私たちは広い視点を失うのです。手にしていた理解視野はなくなるのです。理屈は何も受け付けなくなるのです。憎むということは、一匹のネズミを殺すために自分の家に火を放つようなものです。憎むということは、尻尾が犬を振り回すことなのです。自分が焦点を当てているものに人はなっていくものなのです。

作家のC.S. Lewisは私たちを啓発してくれています。「私はクリスチャンの先生たちが、人の悪い行いは憎み、しかし人を憎んではいけないと教えてくれていたことを思い出します。私はこのことをばかげたことであり、細い藁を二つに引き裂こうとするようなものだと以前は考えていたものでした。どうやって人がしたことだけを憎み、その人は別と考えることができるのか? しかし、何年も経て、私がずっと人生の中でこれを実行する対象としてきた一人の人物がいることに気づいた。それは言うならば、私自身だったのだ。」

お分かりでしょう。憎むということは、外見は別のように見えながらも実は自分に罰を与えていくようなものです。憎しみという水の上に橋をかけて、それを渡っていきましょう!

エド・デルフ/Ed Delph May 8, 2019 CCC

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