怒り(Anger)とは危険(Danger)と一文字違い
- Ed Delph

- Jul 7, 2020
- 6 min read
Updated: Jul 8, 2020

今週のFacebookでのポスティングでこう尋ねました。「マスクをしてどう感じますか? それによって安全を感じますか? それを着けることで何か支配されていると思いますか?」妻のベッキーはこう言いました。「どっちでもないわ。じゃまよ。」
じゃまと感じていると言えば、怒りと癪に障ることの違いをご存知ですか? 読んでみてください。
小さな女の子が父親に怒りと癪に障ることの違いをたずねました。そこで彼は電話を手に取り、ある番号に電話をかけ、娘にその受話器の音を聞かせるようにし、電話の向こうに他人が出たときにこう言いました。「もしもし、メルビンさんはいますか?」返事がきました。「いいえ、メルビンなんて人はここにいないよ。番号をよく確認していただけますか?」
父親は一瞬間をとり、再び同じ番号にかけました。「もしもしメルビンさんはいますか?」電話の向こうの その男は叫びました。「だからメルビンなんていないと今、言ったでしょう! もうここにかけてこないでくれ!」そして受話器を置いた。父親は娘をみつめてこう言いました。「これが怒り。さて癪に障るとはどういうことか、見せてあげよう。」
彼は再び同じ番号を回し、向こうから「もしもし」と言う声が聞こえてきたとき、父親は静か落ち着いた声で言いました。「はい、私はメルビンだ。私に何か電話がかかってこなかったかね?」
この短いお話は私たちの町と国を襲っているコロナウィルスの第二波の蔓延について感じていることを良く描いていると思います。コロナウィルスは電話をした父親のように「もしもし、フェニックスはそちらですか?」と言い、さらに電話をし続け、「フェニックスはそちらですか?」というようなものです。そしてたわしたちがコロナが収まったと思ったときに再び蔓延をし始めたのであり、それはそこに再度電話をして、何か電話が来なかったかと聞くようなものです。自分の住んでいる町の名前をそこに当てはめて考えるとよくわかります。
コロナウィルスのような問題は誰もが不幸になるのです。私たちの州政府と州知事は不要不急のビジネスを再び停止させることが、現在の蔓延に対する最も安全な対策だと推測しています。しかし、ビジネスをしている経営者たちは事業を継続したいと思っており、なぜならもう一度事業を止めるだけの十分な現金が手元にないからなのです。加えて、彼らは第一波の後、州政府から指示された事業再開に必要な安全対策に対して相応の費用も投資してしまっているのです。彼らは更にはカギとなる従業員が去ることも恐れているのです。
私はこの問題についての両者の視点が良くわかります。それは両者にとって抵抗し難い力が働き、動かしがたい障害が存在し、どこにも動きようがないのです。それはストレスのたまるものです。それはかき乱すものです。それは互いに穴の中に閉じこもってしまうようなものです。それは怒りを抱えるのです。
聖書で最初に怒りという言葉が登場するのは、カインがその弟アベルに怒り、殺した時でした。伝道者の書7:9にはこう書いています。「軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。」ある人は、怒りとは心のランプの灯を消す風のようだと例えました。今日の直ぐにキレる文化の中で怒ることは簡単です。私たちは変えなければいけないものごとを目にし、それを今すぐに変えたいと思うのです。問題は昇華しない怒りは伝播していく怒りに変わるということなのです。怒りはたわしたちの内側から始まり、それがうまく取り扱われないと、外側に出て来て他人へと伝わるのです。
ここにいくつかの知恵があります。自分の目に留まる全ての戦いに加わるのはやめましょう。何故でしょうか? 私たちは全ての戦いを戦えないのです。何故でしょうか? 私たちはそのように創られていないのです。争いの人にならないでください。争いの中におかれることと、自分の中に争いを持つことは全く違うことなのです。長い間、人はドラゴンと戦うと、自分がドラゴンになるのです。
争いが自分の中にあると、結末は手段を正当化する時にはじまります。自分は視野を失います。洞察力は消えてなくなります。人を非難し、悪者とし、法さえも犯すのです。最終的には、自分は自分が戦い求めていたものを失うこととなり、より傷つくのか、その過程で更に怒っていくのかなのです。怒り(Anger)は危険(Danger)と一文字違いなのです。破壊的な怒りは他人を壊すだけではなく、自分をも壊すのです。
イエスはその戦いを注意深く、賢く選びました。Laurie Beth Jonesはその著書Teach Your Team to Fishにてこう述べています。「ローマの兵士がユダヤ人を殴り、人々が預言者に唾を吐きかけ、或いはエルサレムで処刑された人々の前を黙って通り過ぎたのをイエスが目にしたとき、どう感じたのかを想像してみましょう。このような恐怖は日常茶飯事だったのです。しかし、イエスが反対デモの先頭に立っていたとか、ローマ帝国の支配をひっくり返そうとしたとか、誰かの処刑を止めさせたとかの記述は見当たりません。何故しなかったのでしょうか? 彼は気にしなかったのでしょうか? もちろん、彼は気にしていました。しかしネイエスは自分の手にするべき戦いを賢く選び、自分の大切な一つの戦いに勝てるようにそのエネルギーを温存したのであり、その戦いは歴史を変えたのでした。彼は自分の剣を抜くことに依ったのではなく、自分の命を捧げる事により勝利したのでした。」
彼女はバランス、振る舞い、そして恵み、品格、尊厳をどう保ちながらどうやってどこに力を注ぐのかを知ることが、自分を自分がたどり着きたい場所のーへの長い道のりにおいて、究極的には近道なのだと言っています。以下に自分に問いかけるべき問があります。どのような戦いに今、自分が置かれているのでしょうか? それと戦うべきなのでしょうか? を自分の真のビジネスと召しとは何でしょうか? 自分は周囲の為に戦うのか、或いは自分の人生の中の納得できていない問題の為にたたかうのでしょうか? 他に自分の怒り、ストレス、癪に障ること、或いは不満を解決するために自分が今行っている事よりも、より良い解決策がないのでしょうか?
最後に、聖書はこう言っています。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:6) 自分の怒りをどう建設的に支配するのかを学びましょう。さもなければ自分の怒りは破壊的に自分を支配し、事態は良くなるどころか、更に悪くなるのです。これは全てを変えるのです。
エド・デルフ/Ed Delph July 6, 2020, CCC
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