二枚舌か真実か?
- Ed Delph

- May 15, 2021
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ある宣教師が会衆に語った。「来週、私は嘘の罪について語ります。私のメッセージをより良く理解するために、皆さんにぜひ、マルコの17章を事前に読んできていただきたいと思います。」
翌週の日曜日、彼がメッセージを始めようとした時、彼は人々に手を挙げるように言った。彼は何人の人がマルコ17章を事前に読んできたのかを知りたかったのである。ほとんど全員が手を挙げた。その宣教師は微笑んでこう言った。「マルコの福音書は16章までです。さて、ここから私は嘘の罪について語りたいと思います。」
神がその知恵を私たちに何かを与えようとするとき、それは常に私たちの益のためなのです。私たちが罪と呼んだり、「神の定めから外れた」というときは、私たちを非難するのではなく、私たちを助けるためなのです。罪は禁じられているから私たちを傷つけるものなのではないのです。それは傷つくものだから、禁じられているのです。
私たちに与えられた神の知恵は嘘をついている場合も真実なのです。十戒の中の神の警告は、真実でありなさいということなのです。何故でしょうか? 嘘をついたり、だましたりすることは、人間関係を壊す第一の理由だからです。人間関係は信頼を必要とするのです。義務を引き受けることは希望を生み出すのです。義務を守り続けることは信頼を生み出すのです。言葉を変えるなら、嘘は信頼を破壊し、信頼は全ての人間関係の通貨のようなものなのです。信頼は、あの人やあの集団へとつながっていくものなのです。
嘘はエデンの園にさかのぼって始まったのです。イブを園で誘惑した蛇は半分だけの真実でだます専門家でした。彼はモグラの山を大きな山だと話を作ることもできました。彼はトルネードよりもすごい言葉のひねくりと言い換えをしていました。その嘘つきは、念のために煙のないところに煙を作ることもできました。アダムとイブはその言い換えの罠に落ちたのです。この食べ物を食べ、そしてあなたは神のようになり、善と悪を知るようになると。言葉を変えるなら、自分は全ての判断基準になり、世界の王と女王になり、特権と、全ての責任からの免除を手にするということなのです。
そうです。お話をご存知でしょう。アダムとイブは嘘に陥り、自分に嘘をつき、互いに嘘をつき始めたのです。彼らは自分が陥ったものを生み出すようになったのです。神が何が起きたのかを見るために来た時、アダムはイブを責め、イブは蛇を責め、蛇は立つ足さえなかったのです。神はアダムとイブに楽むことがないようにしようとしていたのでしょうか? そうではないのです。神は彼らの関係を守ろうとしていたのです。神は彼らの信頼を健全なものに保とうとしていました。その結果、男性と女性の関係はその日以来、緊張関係にあるようになったのです。
アダムとイブの責任転嫁は、実際は恥の転嫁でした。彼らは落ち、彼らは隠れ、彼らは恥じ、怒り、そして恐れに満ちたのです。彼らは起きたその事実を眺め、そして勝てば官軍の思考が存在するようになったのです。彼らは大きく、威厳を持て完璧に見えなければならなくなったのです。彼らの嘘と作り上げた話は、事実を越えてしまったのです。そして本物であること、健全であることはご都合主義に置き換わったのです。ご都合主義とは、自分の為になることは何でも行い、自分が良く見えるようになるための計画と理由付けをしていくことなのです。真実は、だまされることの最悪な側面とは、自分がだまされていることなのです。
このすべてのことはどこから始まったのでしょうか? 恐れを生み出した一つの嘘が、嘘と半分だけの真実が受け入れられ、待望されるライフスタイルと文化を生み出したのです。誰もが、イチジクの葉の後ろに隠れるようになったのです。このことを考えてみましょう。嘘は覆われなければならないのです。しかし、真実は裸で走り回るのです。人間関係が常に後回しになっても不思議ではないのです。誰も誰一人としてこれ以上は信じなくなったのです。あ、ところで、半分だけの真実に気を付けてください。自分は間違えた半分を手にしているのですから。
嘘は弱さに対する拒絶なのです。勇気ある人は真実を恐れないのです。イエスは常に真実に満ちていました。彼の健全さは、不正直な立法学者、政治家、宗教のリーダーたち、当時の実業家たちを恐れさせました。彼らは彼の正直さに反応しました。正直さは力です。正直さは、狂乱している茂みの中からウズラを飛び立たせる力を持っているのです。それは砂漠の岩をひっくり返し、その下のサソリ、ムカデ、クロゴケグモ、そして虫を再び暗闇に向かって走らせるようなものです。真実の光が暗闇に差し込み、やがて照らすようになると、全てが明るみになるのです。アブラハム・リンカーンは言いました。「成功した嘘つきになる為に必要な記憶力は誰一人として持っていない。」
自分が傷つくことになっても真実を語り、健全さの中を歩んだある人のことを詩編15:4は語っています。私たちはこの人のようになれないのでしょうか?私は、彼が真実を語るのに最低限必要な程度に信頼された数多くの固い人間関係を持っていたと推測します。そのような健全性は、神の目と他の人々の目から見ても彼の為になり、決して彼に反することにはならなかったのです。間違えてしまい、それを認めても良いのです。つまり、自分が間違えているということを認めることの素晴らしいこととは、他人にもたらされる喜びなのです。
私たちがもし、少しの間でも正直でいられるなら、多くの人は二枚舌よりも真実の顔をしていた方が容易と感じると思います。ここに真実で満たされることのもう一つの益があります。自分が初めて真実を語るなら、自分は前に何と言ったのかを、もう二度と思い出す必要はなくなるのです。そして最近の私の記憶力にとっては、ボーナスでもあるのです。
エド・デルフ/Ed Delph May 10, 2021,
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