不適格感と劣等感にサヨナラ
- Ed Delph

- Jan 1, 2021
- 6 min read

不適格感と劣等感とはパワフルな言葉ですよね? 多くの人々にとって、これらの言葉が世界そのものなのです。しかし、不適格感と劣等感はより破壊的な感情に根差しているものなのです。それは恐れと言われるものです。
みなさんはクリスマスストーリーの中に用いられている恐れという言葉の回数は、他の聖書の出来事の話に用いられている恐れという言葉よりも数が多いことをご存知ですか?キリストの誕生の時のイスラエルにはやる気を失わせる恐れが染み込んでいました。そして、このやる気を失わせるような恐れの雰囲気の中、最初のクリスマスが訪れたのです。
最初のクリスマスの周りにいた実際の人々のクリスマスへの遭遇をすこし思いめぐらしてみましょう。
我らの最初のカップル、エリザベスとザカリアは、結婚して何年にもなりますが子どもがありませんでした。彼らは子どもを持つには年を取りすぎていました。彼らの友人たちは気の毒に思っていました。(ルカ1:58) 彼らは何故、自分たちに子どもが恵まれないのかわかりませんでした。彼らは昼も夜も不適格感に襲われていました。何か身に覚えがありませんか?
ザカリアはレビ人で祭司でした。ある日、彼が神殿で仕えていると、天使ガブリエルが彼の前に現れました。ザカリアは恐れました。天使はザカリアにエリザベスがヨハネという名の子どもを産むと告げました。ザカリアは天使に、自分たちはそのようなことになるには年を取りすぎていると伝えました。神の臨在の中に立っていたガブリエルは、ザカリアの口をその子どもが生まれるまで閉ざしました。恐らくは、ガブリエルは、ザカリアの恐れに満ちた言葉がバプテスマのヨハネの誕生という神の計画を台無しにしないようにザカリアの口を閉じたのでしょう。
ザカリアという名前は「神は覚えている」です。エリザベスという名前の意味は「彼の誓い」という意味です。いかがでしょう? 並べてみましょう。「神はその誓いを覚えている」です。
誰に対する彼の誓いでしょう? エリヤの力と霊によって神が預言者を送るであろうイスラエルの人々です。イスラエルへの誓いを成就する中で、神はエリザベスとザカリアが救い主の先駆者となるであろう子どもを授かるであろうという、その誓いを成就したのです。神の愛は彼らにまっすぐにはたらき、彼らの不適格感を表現する恐れを封じたのでした。
続いてマリアについて考えてみましょう。マリアはこの後、イエスの母になる人で、ヨセフと婚約しました。婚約は全てうまくいき、そして突然のことが訪れます。ガブリエルがその扉に立ち、こう言ったのです。「おめでとう祝福された方。主はあなたと共にいます。」そして言いました。「マリア、恐れてはいけません。あなたは子を宿し、男の子を産みます。その息子をイエスと名づけるでしょう。」
マリアはおどろきました。彼女は男を知らなかったのです。そして彼女は奴隷の身分の低い女性でした。マリアは思いました。「私は誰?神は決して私のような奴隷の周りには来ないわ。ヨセフはどう思うのかしら。他の人はどう思うのかしら。私はどうなるの?」この不安の根本には何があるのでしょうか?彼女は奴隷の女性と言う劣等感を言い表していただけなのです。劣等感は恐れから来ます。みなさんは劣等感を抱いたことがありますか?もしそうなら、この実際の生きた見本はあなたに向けて示されたものです。
マリアの恐れと混乱を見て、ガブリエルは自分は本当にここに現れたこと、その言葉は真実であることを告げます。このようなことになっても、マリアにはなんのメリットもありません。それは神の思うままのことなのです。エッセンスとしてガブリエルはこう言っています。「マリア、聖霊があなたの上に望み、神の力があなたの上を覆うのです。例えあなたが奴隷だとしてもです。神に不可能なことは何一つありません。マリア、あなたは劣ってはいません。あなたは神の子であり、神は失敗作を作らないのです。」お分かりでしょうか?マリアに与えられた神の完全な愛は彼女の劣等感からくる恐れを封じたのです。
これらのやりとりを説明する聖書の言葉があります。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」(Iヨハネ1:18)神の愛はエリザベスとザカリアの不適格感を打ち砕きました。そして神の愛が彼らに充足を与えました。神の愛がマリアの劣等感とコンプレックを打ち砕き、彼女に天の王国の身分を与えました。
誰一人として、神の前に劣ったものなどいないのです。そして神はみなさんにも同じであり、私にもそうなのです。それがクリスマスの全てなのです。
クリスマスがあと数日に迫る中、イエスがエリザベス、ザカリア、マリア、そして我々全員に作り上げた長い旅路について考えてみましょう。作家のMax Lucadoはこう言っています。「彼は天の御使いたちに命令する立場から、わらの中で眠る立場へと行った。星を抱える立場から、マリアの指をつかむ立場へといった。宇宙全体を包んでいた手のひらにローマ兵の釘を受け入れた。彼が創造した数多くの舌が彼をあざ笑った。彼が創造した数多くの口が、彼に向かって唾をはいた。彼が創造したはずの数多くの手が、彼を十字架につけた。」
みなさんは、それが自分に何をするかと知っていたら、これらの口、舌、手を創造するでしょうか? なぜ、イエスがこのようなことをしたのでしょうか? 神の愛が、イエスを他人の人生へと手を差し伸ばすようにし、捕囚を解放するようにとしたのです。神の愛が来るとき、恐れは出ていくのです。クリスマスイブに「その夜、すべての年月の希望と恐れが出会った」のです。
神の愛は、多くのものをそこに引き付けるのです。イエスにあっては、私たちの魂は彼の血よりも大切でした。皆さんの永遠の人生は、彼の地の上での人生よりも大切でした。私たちの天における居場所は、彼の天における居場所よりも大切でした。彼は天における自分の居場所を放棄し、私たちか゛天における居場所を手にするようにとしたのです。聖人エイレナイオスはこう書いています。「彼の果てしない愛により、彼は私たちを彼が創造したような姿にするために、彼は私たちの本来の姿になった。」
このクリスマスは、単にメリークリスマスを過ごさないようにしましょう。メリークリスマス、不適格感や劣等感から来る恐怖からの自由を手にしましょう。忘れないでください。自分が同意しない限り、誰一人として、自分を不適格だと感じたり劣等感を感じたりさせることはできないのです。
エド・デルフ/Ed Delph December 14, 2020, CCC
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