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カエル、枝、コウノトリ、フォーク

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Jan 22, 2022
  • 6 min read

Updated: Mar 30, 2022

今の世の中はコンロの上で煮え立っている鍋のようなものです。皆、いつそれが沸騰して吹き出すのかとハラハラしています。私の行くところ先々で人々は社会のいろいろなところで、リーダーや官僚システムに騙されたり、使われたりしています。コメディアンのJackie Masonのお話を思い出します。「私の祖父はいつも言っていました。『自分のお金を見つめるな。健康を見つめろ。』それで私が健康に注意していると、誰かが私のお金をくすねていたんです。それは祖父でした。」


イソップは王が欲しかったカエルの話をしています。彼らはジュピターにしつこく要求し、ついにはジュピターが枝を池に放り投げます。その後、カエルたちはしばらく喜んでいました。


しかし、その後、カエルたちはその王のはずの木の枝の上に飛び乗ったり、その上で走り回ることができることに気づきました。その枝は何も抵抗しませんし、何も反応しません。そればかりか、その王はただ池の上で浮かんでゆらゆらしているだけで、「強いリーダーシップ」を切実に求めるカエルたちは憤慨しました。


そこでジュピターのところに戻り、枝のリーダーについて不満を言い、より強く対応をしていき我々を管理するリーダーが欲しいと願いました。しかし、再び、ジュピターはつまらないカエルたちに飽き飽きし、グループのカエルたちの中に高く立つコウノトリを与えました。彼は確かにリーダーとしての外見を持っていました。


カエルたちは新しい状況に喜びした。その新しいリーダーは池の周りに高く立ち、印象的な声を出し、とてもよく目立ち人目を引きました。しかし、その喜びは悲しみに代わりパニックになりました。コウノトリがその配下の者たちを食べ始めたのです。お判りでしょうか? 「王が欲しい」カエルたちは、自分たちの直接の間違いから滅んだのではなく、自分たちの間違いによって間接的に滅んだのです。教訓;ソーシャルメディアというコウノトリや「政治的な繰り返しのフレーズ」というコウノトリに心を奪われないでください。彼らが何をするのかを見るのです。


今日、あるリーダーたちは自分が第一、社会が第二のリーディングをしています。それが起きた時、個人の品格、真実、奉仕の態度は、勝つこと、支配すること、権力にとどまることのためのいけにえにされるのです。それは悪い兆候です。なぜでしょうか? 歴史から見ると絶対権力は最終的に99.9%は腐敗するのです。テレビのニュースで最も真実に近いことを言っているのが、天気予報コーナーの気象予報士になった時、それは恐ろしいことなのです。


カトリックの大司教のFulton Sheenはこう言いました。「従うことを学んだことがない人が命令をする権力を与えられたとき、文明は必ず危機に瀕する。」言い換えるなら、小さなことがあまりに大きく感じられるなら、それは自分が大きなことに対して小さすぎることを示唆しているかもしれないのです。賢い男がリーダーについてこういいました。「自分の船に誰を乗せるか気をつけろ。なぜなら人によっては自分が船長になれないという理由だけで船全体を沈めようとするからだ。」


もちろん多数決主義は、最終的に人々にふさわしい、投票すべき、選出すべき、耳を傾けるべきリーダーを選び出します。しかし、オーストラリアの個人哲学の学校の設立者のAlfred Adlerはこう言っています。「個人の原理を戦って主張することは、それに沿って生きるよりも優しい」この観察は今日の「私が言ったとおりにやれ、ただし私が実際にしていることはマネするな」式の、インフルエンサーや有名なリーダーに簡単に当てはまるのです。単に私たちが宙に浮かんで何かの音楽をハープで奏でたとしても、それは自分が天使であることを意味しないのです。


多くの人々のイライラは頂点に達しようとしていますし、コウノトリ、枝そしてカエルにとっての結末は時として厳しいものがあります。コウノトリは自分の輝きと、自分のしたいことの輝きで目が見えないのです。カエルたちはコウノトリの餌になり、コウノトリを肥え太らせる栄養になり、単に事態を悪くするだけなのです。そして小枝はそこに黙って座り、何もせず、コウノトリがその上を闊歩するのを許し、自分がコウノトリのトイレにならないことを願っているだけなのです。そして、早晩、しかし不可避なこととして、コウノトリはカエルをコウノトリが主導するプロジェクトや会社の栄養として飼育して食べつくすのです。


しかし待ってください。ここに良い知らせがあります。元気を出しましょう。もう一つのリーダーの選択肢があります。私は我々カエルたちにこう言います。小枝やコウノトリのリーダーの間を行ったり来たりするのはやめましょう。聖書は私たちに良いリーダーシップについて啓発しています。「すると、イエスは彼らに言われた。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。』だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22:15) 良いリーダーは動機を与えるのであり、ミスリードはせず、自分の功績に利用したりもしません。良いリーダーは池を略奪せず、良いリーダーは池を反映させます。


興味深いことに、「リーダー」という言葉は聖書に6回しか出てきません。「仕える人」という言葉は900回も出できます。ですから何故私たちは何度もあちこちでリーダーシップについてのカンファレンスが開かれるようなことになっているのでしょうか? 教育家で動機を与える話し手であるSteve Venturaはこう言いました。「リーダーシップと同義である何かの概念があるとしたら、それは責任だ。」リーダーシップの責任無しに、リーダーシップの権威と特権がが欲しいリーダーに気を付けなければならないのです。リーダーとして与えられたものは、他人に流れ出てすべての人の益になるようでなければならないのです。


良いリーダーは自分のために人を集めません。彼らは下心、嘘、利害、電子メールのおまけなしに他人に仕えるのです。本物のリーダーシップには個人の健全性と利己的な野心のない奉仕の精神が必要なのです。コーチのJohn Woodenはこう言っています。「自分の評判よりも、自分の性格の品位に気をつけろ。性格の品位は自分が誰なのかである。しかし自分の評判は単に人々が自分をどう思うかに過ぎない。」 評判は何かの一瞬で作り上げられるが、性格の品位は人生を通じて作り上げられるものなのです。

あなたはこう考えるでしょう。「エド、あなたはリーダーシップというテーマにイエスを持ち込んでいる。私はイエスのものが必要なのか?」皆さん、今日の世界では、ウォルマートに行くだけでもイエスが必要なのです。

ここに皆さんが持ち帰ることがあります。「正しく生きている人々(リーダー)が街を祝福するとき、それは反映する。間違えた生き方をしている人々(リーダー)の悪事の会話は時を置かずしてゴーストタウンへと至る。」(箴言11:11 ASV訳) このゴーストタウンとは、イソップのお話のカエルのいなくなった池に聞こえませんか? ここにフォークを持ったコウノトリの教訓があります。自分が金づちになると、すべては釘になるのです。


今日の世界におけるリーダーシップについて、変わった考え方があります。リーダーたちとは、神によってデザインされた素晴らしい奉仕者であり、恐ろしい主人ではないのです。どのような種類のリーダーを投票で決めるにせよ、選ぶにせよ、自分の良識で選ぶのです。それが安定的な考え方に至るのです。




エド・デルフ/Ed Delph January 24, 2022, CCC

Ed Delph/NATIONStrategy

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