イースター;野獣の中に美を見出す
- Ed Delph

- Apr 5, 2020
- 5 min read

私たちが醜いとか恐ろしい(獣)と考えるものは、その時と視点によっては美しいものに変わることができるのです。そして私たちが外見的には美しいと思っていたものが、内面的には獣であったりもするのです。多くの場合、最終的には内面にあるものが外面に出てくるものなのです。イースターは野獣の中に美しいものを見出す素晴らしい見本なのです。
以下に野獣の中に美しさを見出す例があります。難破船の唯一の生存者が小さな無人島に流されました。彼は熱心に神に救いを祈り求めました。毎日、彼は水平線を見つめて助けを探しましたが、誰も来ませんでした。
疲れ果て、ついに彼は流木を使って自身を風雨から守り少ない持ち物を保管しておくための小さな小屋を作りました。ある日、彼が小屋に戻ると煙が空に立ち上り、小屋から炎が上がっているのが見えました。全てが失われました。彼は茫然として嘆き怒りました。「神よ、どうして私にこんな仕打ちをするのですか?」彼は泣き崩れました。
翌朝早く、彼は島に近づく船の汽笛の音で目を覚ましました。その船が彼を助けるために来たのです。「どうやって私がここにいるのを知ったのですか?」男は疲れ切りながらも、救助に来た人たちに尋ねました。「私たちはあなたが煙で知らせた信号を見つけたのです。」彼らは答えました。獣のような炎が彼を救う美しい煙に変わっていたのです。
私たちは野獣の中の美しさというコンセプトをキリストの処刑の前の三日前に見ることができます。イエスは自分の時が来たのを知りながら、ゲッセマネの園で祈っていました。「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカの福音書22:41-44)
イエスは次に何が来るかを知っていました。彼は十字架の上で死という獣と対面しようとしていました。彼は過去、現在、未来と世の中で行われる全ての罪という獣と対面したのです。彼は自分の弟子たちや友人たちの裏切りという獣とも対面しようとしていました。そして最も悪いことに、彼は今まで経験したことの無い何か、即ち神と切り離され、神から見捨てられるということに直面することも知っていました。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5:21) これら五つの獣を復活祭(イースター)の日に倒したことが、イエスのための新しい朝を創り出したのです。そしてイエスはその美しいものを私たちに分け与えたのです。イエスの十字架の刑、死、そして埋葬は敗北と死の苦痛で結末を迎えることはありませんでした。イエスのイースターでの十字架刑は死を乗り越えた生の勝利の栄光でした。それはイエスを死んでる全ての人のための永遠の人生の美の夜明けでした。イエスは天に昇るために下ってきたのです。
もしかしたら皆さんは野獣に直面しているかもしれません。もしかしたら、それは身動きの取れない状態から自分が抜け出すのに直面しなければならない獣なのかもしれません。それを成し遂げた後、自分が受け取る美しさと平安に茫然とするかもしれません。結びつきの後に高くあげられていくものなのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント4:28)
そうです。野獣の中の美しさというものが自分が直面しているものの中にあるのです。それはイースターの日のイエスと弟子たちの中にもありました。彼は本当に立ち上がったのです。ある氏名不詳の人がイースターのエッセンスについて、下記の文章に記しています。
「三人の男が人道に対する罪で裁判にかけられた。二人はその犯罪を犯した。ひとりは犯さなかった。三人の男たちは国の裁判へとかけられた。二人の男は公正な判決を得た。一人はそうでなかった。三人の男たちは鞭うたれた。二人の男は自分の故であった。ひとりはそうではなかった。三人の男は十字架を運ぶように命じられた。二人の男は自分の行いの故にその十字架を背負うこととなったが、一人はそうではなかった。
三人の男たちは、道の途中でそしられ、唾を吐きつけられた。二人の男は暴言を返した。一人はそうしなかった。三人の男たちは十字架の上にくぎで打たれた。二人の男はそれに価した。一人は違った。三人の男たちは十字架にかけられながら会話をした。二人の男たちが口論した。三人の男たちは死が近づいていることを知っていた。二人の男は抵抗した。一人はそうではなかった。
三人の男たちはそれぞれの十字架の上で死に、葬られた。三日たった。二人の男たちは墓の中にとどまっていたが、一人は違った。」
私たち一人一人は、何がイースターに起きたから祝うのかについて改めて思い起こす必要があります。私やみなさんは、自然な考え、高度な教育、経験、超ウルトラ級の凄いもの、ボキャブラリ、何かの理論によってイエスの元へ導かれることはありません。私たちはイエスのところへと信仰により導かれるのです。それは私たちが思考を放り捨てるということではありません。それは私たちの脳に信仰を放り投げさせないということを意味するのです。
現在、私たちはコロナウィルスという獣の中で暮らしています。人生は不安定です。しかしその不安定な時は私たちがイエスを見つめるために必要なのかもしれません。もしかしたら、舞い上がっていた埃が全て舞い落ちたとき、私たちがどれだけ少しの量だけが必要なものであって、私たちがどれだけ過剰に保有しており、人とのつながりの真の価値について気づくのかも知れません。
むち打ち、いばらの冠、十字架刑からどんな良いものが出てくるのでしょうか? なぜ、その汚い埃の中から美しく、とても美しいものが出てくるのでしょうか?
Ed Delph April 6, 2020. CCC
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