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もし何ができたであろう

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • May 6, 2022
  • 5 min read

自分ができないだろうと知らなかったら何ができていたでしょう。私はこのコンセプトが好きです。Zig Ziglar はこのコンセプトをLife Liftersという著書の中で用いています。


私はアルゼンチンのレジステンシアに数年前に滞在し、漁師がドラドを捕るのを見つめていました。自然の水で生きているドラドは非常に大きく、1.2mから1.5mあり、それに見合った釣り道具が必要でした。漁師は釣り糸を投げ、すぐに大きなドラドをその先に釣り上げました。その魚を引き上げるのに20分ほどかかりましたが、最後には彼は川に返したのでした。私はそのドラドが今晩のグリルに乗るのかと思っていましたが、彼は川に返したのです。

彼は魚釣りを続けました。今度はより大きなドラドを釣り上げました。25分ほどかけて引き上げました。私はそのドラドが今晩のグリルに乗るのかと思っていましたが、彼は先ほど同様、川に返したのです。私は呆然としました。


彼は魚釣りを再びしました。今度は小さなドラドを釣り上げました。驚いたことに彼はそれを手にしたのです。次に彼は前よりも大きなドラドを釣り上げました。1.5mはあり30分もかけて引き上げました。岸に上げると彼はすぐに川に返しました。


ついに私は自分のできる限りのスペイン語を用いて彼になぜ小さい魚を手にして、大きい魚を返したのか尋ねました。彼は答えました。「私は25cmのフライパンしかもっていないよ」納得です。


残念ながら多くの人はそのように考えています。人々は自分が何ができるか知らないために、自分ができることに制限をかけているのです。漁師の思考は小さすぎなのです。彼は大きな魚を小さく切り、少しずつ料理もできるはずです。新しくより意義深い人生の視点がより成功した人生には必要なのです。


神のイメージに沿って作られた我々人間は大きな魚を捕れるようにできています。しかし40cmから50cmの考えを5cmから10cmの思考に入れることは無理なのです。人間は1.5mのフライパンを持つように惣佐宇されており、大きな魚も調理できるのです。しかし多くの人は小さくまとまっているのです。それはキャパシティーの問題ではありません。それは私たちの視野の能力の問題なのです。私たちが焦点を合わせるものに私たちはなっていきます。その神の部分は私たちの中に種として入ってきます。しかし私たちは水を与えなければならないのです。


ですから、自分が何ができるか知らないなら、どうすることができるのでしょうか?


勇気を違う形で持つ。イエスがそうでした。際立つものとして立つのです。非難に対応することを学ぶのです。そうでなければ非難によって自分が支配されるのです。それによって自分を進化させるのであり、落胆させるのではないのです。自分の価値を自分で決めるのであり、他人に価値を決めさせないのです。人々は常に自分を安く買いたたこうとします。自分の人生のプレーヤーになるのであり、観客になってはいけないのです。そしてもう一マイル先に行けば、ほとんど渋滞はないのです。自分を強めてくれるキリストを通して、私たちは神がそうなってほしいと思っているものになれるのです。それは大きなフライパンなのです。


私は大きなフライパンを信じます。作者不詳のお話があります。タイトルはI Believeです。私たちは今、このI Believeを用いることができると思います。


 「出生証明書」とは私たちが生まれたことを証明し、死亡証明書は私たちが死んだことを証明します。その間に撮られた写真は私たちが生きていたことを証します。


   私は二人の人がただ口論したとしても、それはその二人が愛し合っていないことではないことを信じます。そして、二人が口論しないからと言って、それが二人が愛し合っている証明だとも思いません。私は友達が変わったことを理解したなら、友達を変える必要はないと信じます。友達がどれだけ素晴らしいものだとしても、それは時として自身を傷つけることもあるということを私は信じます。そのために友達を赦しましょう。


   人生で心が痛むことに対して、自分が何かをちょっとできることを信じます。自分がなりたいような人になるには長い時間がかかることを私は信じます。自分の愛する人に会いある言葉を告げてその場を去ることができると私は信じます。それがもしかしたら、最後にその人に会う時かもしれないから。長い間、自分ができないと思っていた後、再び歩むことができると私は信じます。


   何をどう感じようと、自分のしたことに責任を取らなければならないと私は信じます。自分が自身の態度をコントロールするか、そうでなければ態度に自分がコントロールされてしまうと私は信じます。自分が倒れてしまった時、自分にとどめを刺すだろうと思っていた人が、実は自分を再び立ち上がらせるために助けたりすることがあることを私は信じます。私が怒る権利がある時に怒ったとしても、それは怒りに身を任せて無慈悲な態度になる権利ではないことを信じます。


他人から赦されることは常に十分ではないことを私は信じます。時として、私たちは自分自身を赦すことを学ばなければならないのです。自分の心がどれだけ砕かれ傷ついても、世の中は自分の嘆きを止めることはできないことを私は信じます。自分の生い立ちや環境が自分が誰であるかについて影響を与えるとしても、しかし私たちは自分がどのような人物になるかについて責任を負っていることを私は信じます。


二人の人がそれぞれ全く同じものを見つめていても、全く違うように受け止めることがあることを私は信じます。自分の人生が時間とともに自分さえをも知らない人によって、変えられていくこともあることを私は信じます。壁に掲げられた輝かしい資格認定証や表彰状が、決して自分を素晴らしい人間にするものではないことを私は信じます。


   自分が人生で最も大切にしている人が、時としてあまりに早く私たちから取り上げられてしまうこともあることを私は信じます。最も幸せな人が、全て最高のものを持っているのではないことを私は信じます。そのような人たちは、自分の持っているもので最善を成しているのです。


ここに私の思いがあります。この話の中に一つでも、私たちが見失っており価値のあるものがあることを私は信じます。あ、そうか!


エド・デルフ/Ed Delph/May 9, 2022/CCC

Ed Delph/NATIONStrategy

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