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もう二度と同じではない、思わぬ人と会う

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Aug 3, 2019
  • 5 min read


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 まずは話の舞台を設定させてください。何年か前、私はフィリピンのマニラのある大きな教会で講演をしていました。その教会はマニラの貧困地区にありました。1000人ほどが、五百人収容として建設された古びたビルにすし詰めに入っていました。しかし、ビルは期待と熱気に満ちたフィリピーノでいっぱいでした。その部屋の中はかなり暑かったのですが、 人々の心の熱気はもっと熱いものがありました。

私は我々の誰もが知っていながら、言うなれば、ほとんどそれについて解き明かしをされていないことを話しました。それは私たちにとって身近すぎるのです。知ってはいるものの、知らないのです。私は祝福の意味を語ったのです。ヘブル語の祝福とは、ひざまづいて贈り物を渡すことも意味しているのです。祝福は、それを受ける価値のない人にも与えることができるものです。ほとんどの神の祝福は、ただそれ故のことなのです。この場合、祝福を受ける人はそれを努力して手に入れたのではなく、それに値したのではなく、それをもらえると期待もしていませんでした。祝福を与えることにより、その人はひざまづいて贈り物を与える価値があると誰かに認められたことを意味するのです。

私が祝福についてのメッセージを語っている最中に、ある瞬時の思いが脳裏をかすめました。それはリスクがありましたが、それを実行に移しました。それは神、会衆、メッセージを語る者、祝福を受け取る者、全てが同時に交わった素晴らしい瞬間でした。それは我々誰もが忘れることのない瞬間でした。そして、ここから先がその話の続きです。

そして、これら全ての人々の前に私は今そこに立ち、彼らが永遠に祝福の概念を理解するようにと試みていましたこの教会の人混みでいっぱいの通路の一つに歩み降り、非常に貧しいように見える老女を選びました。実際、彼女はそこにいる中では最も貧しかったようです。おどおどし震えながらも、私と一緒に来てくれました。私は静かに彼女をステージの前の、皆の見える場所へと連れて行きました。

私たちがそこへと立った後、私と彼女は面と向かって立ちました。皆が注目していました。一本のピンを落としても音が聞こえるような静かさでした。そこにいた皆は100%私とこの老女に注目していました。そして私は彼女の前にひざまづきました。次に起きたことは全ての人々を驚かしました。私は自分のポケットに手を伸ばし、彼女に私が持っていた現金の全てである30ドルほどのフィリピン ペソを彼女へ差し出したのです。彼女は信じられない顔をして私を見つめていました。

突然、彼女は私がそのフィリピン ペソを与えようとしていることに気づきました。私は彼女を祝福していたのであり、彼女の前にひざまづき、贈り物を差し出していたのです。私は彼女を祝していました。ただそれ故のことです。ただそれ故のこととは、何の交換条件も付いていないということです。私は彼女の価値だけを考えていました。彼女が過去に何をしたかではなく、彼女が誰なのかではなく、神の姿に似せて形作られた人間の仲間としてです。

彼女はワッと泣き出し、その贈り物に圧倒されて、信じられないという思いと感謝の思いで涙が溢れ出しました。私はこのようなことが彼女の今までの人生に起きたことはないと想像します。人々は何が起きているかを理解するにつれて感嘆しました。その瞬間、私は生まれて初めて祝福の意味を感じ取りました。会衆の一人一人の中にあったメンタルな個人的な障壁を、神がある事を行うことで取り去ってしまった、心を照らし出された瞬間の一つでした。私もその中の一人でした。

そして何が起きたのでしょうか? 私は教会堂の反対側の通路に向かい、もう一人の貧しい女性を見つけました。おそらくは一人暮らしの未亡人でしょう。私は静かに丁寧に彼女をステージの上に導きました。そして、私は最初に私の祝福を手にした女性(依然として祝福を受けたショックの中にいましたが)に声をかけて、二番目の女性の前にひざまづいて、自分が受け取ったペソの一部を彼女に渡すように言いました。彼女はすぐに理解して私のいう通りにしました。会衆は依然として息を人でいました。それは誰にとっても、あ、そうか!の時でした。

祝福は強制されるものではありません。それは神の霊から来るものであり、祝福を与える人から祝福を受け取る人へと触れていく心の内面の働きなのです。ちょうど神が私たちを祝福したように、私たちは他人を祝福するために祝福されたのです。神は私たちに与えた祝福を通して他人を祝福するべく、私たちを祝福したのです。

ここで学ぶべきは何でしょうか?神は滅びる事なく、永遠であり、神だけが賢くあり、そしてその神が天から地へと下り、地の姿をまとい、私たちの前にひざまづき、救いと永遠の命という贈り物を手にして見せてくれたのです。私たちはそれを手にするために、働きませんでした。私たちはそれを手にするほどには良い者ではありませんでした。彼は「ただそれ故に」祝福したのです。それは神の性質なのです。「何?神が私の前にひざまづいた?」それは私たちの思いを吹き飛ばすほどのことです。その贈り物は皆さんのものであり、手に取りましょう。しかし、決してその救いを他の人にも分け与える事を忘れないでください。

皆さんはどうやって周囲の人を祝福していますか?一つの方法は、赦しの祝福を周囲に広げる事です。もしかしたら、皆さんは自分を傷つけた人を赦す事で祝福するときかもしれません。馬鹿げているでしょうか?それは神が私たちになした事なのです。神は皆さんの前にひざまづき、赦しの祝福を手渡してくださったのです。自分の祝福を数えるのではなく、祝福に数えさせましょう。人々のところに訪問する、手紙を書く、或いは何かすべき事をするのです。人々を赦しの祝福で祝福しましょう。彼らを赦す事で、自分のその手の手錠を解くのです。皆さんは祝福すべく、祝福されたのです。

Ann Voskampはこう言っています。「最高の贈り物とは、祝福そのものになる事だ。」Joyce Lock はこう言っています。)ある人は祝福を望み、ある人は祝福を祈る。ある人は祝福を送り、ある人は祝福そのものになる。」

私は最後の部類になろうと頑張っていますが、皆さんはどうでしょうか?

Ed Delph August 5, 2019 CCC

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