たすけて。。。。私は自分の中に信頼をなくした!”
- Ed Delph

- Mar 1, 2021
- 5 min read

信頼 – それは深い言葉です。私たちの社会全体が誰かや何かを信頼することに問題を抱えているように見えます。私たちは政府の人々、教育界、メディア、あるいはその他の社会の一部から、私たちの信頼を裏切るような言動や行動にさらされているのです。倫理、経済、モラルの基準は私たちの世界の数多くの階層で希薄になっているのです。そして、それが継続するような慣性力がついてきているように見えるのです。
私はこの問題に今少しばかり懸念しています。私は信頼についての「Learning How to Trust」という本さえ、共著しています。私は教会に通わない人々だけではなく、教会に通う人々までが疲弊し、皮肉になり、懐疑的になっているのに気づいていました。この傾向のある部分は当然の結果なのです。私たちは誰の上に信頼するのかを決める時、知恵を使う必要があるのです。
私たちは信頼する能力を失いかけているのでしょうか? 物事は私たちが信頼するように進まなければならないのでしょうか? 何かへの信頼の欠如により国全体や地域における皮肉主義に至る裁きにあるのでしょうか? 昨今、私たちが信頼をおける何かや誰かはいないのでしょうか? 私たちは自身の中にだげ信頼をおいて、懐疑的に生きるように運命づけられているのでしょうか? 「信頼の欠如」のライフスタイルは、長い時間をかけて私たちをどこに連れていくのでしょうか?
信頼すべきか、信頼すべきではないのか? それが問題です。かの古い歌はこう歌っています。「私は岩、私は島、私は誰にも触れない、誰も私に触れない」これは人生を生きる上でチャレンジングな方法です。信頼のない人生、或いは間違えた対象物や人に信頼をおくひとは、生きるというよりも存在するというだけのことになるのです。もし私たちが、今歩いているように思える信頼が機能不全に陥っている道を下り続けるなら、結果が伴うのです。私たちは信念から恐れへ、豊かさから欠乏へ、信頼から疑いへ、さらには悪へも進んでいくのです。
多くの人々は、海の中のウニのようにトゲを出して行動しています。彼らは後ずさりして、その信頼能力の部分にこう看板を出しているのです。「閉店中」 問題は、私たちが他人を締め出すなら、私たちは自分自身も締め出しているのです。
何年も前、私は独身者を導く牧師として、離婚したばかりの人々を何百人もカウンセリングしました。彼らは私たちの独身者の集まりに来て、このように言うのです。「私はもう、絶対に男性を信頼しない」「私はもう絶対に女性を信頼しない」「私はもう二度と恋愛をしない」「最初は快適に思ったが、後に人生を永遠に制限するようなことには絶対にしない。」
1991年、ニューメキシコ州タオスに毎年恒例のスキー旅行の時、コース外のスキー滑走でひどい目にあいました。コントロールを失い山の半分ほどの距離をものすごい速度で滑り落ちていったのです。私の目の前で人生が走馬灯のようによみがえりました。何年もの時間に感じられた後、私はとうとうドスンと崖から落ちて止まりました。私は顔を上に向けて、スキー場のゲレンデの雪上車の通った後の上に落ちて倒れていました。自分が生きていたことでほっとした後、自分の体を確かめました。少しずつ確かめていくと、左足が直角に曲がっていることに気づきました。私の足が落下中に木にあたっていたのです。
その後の数日間、そして数週間は治療を待ちわびながら耐えがたい苦痛でいっぱいでした。左足大腿部は石膏で固められました。落下の距離の長さと激しさは、私の足の中の神経を著しく損傷していたのです。のちに手術で大腿部の骨全体を支えるように金属の棒が取り付けられ、そのおかげでフェニックスに戻ることができました。私が記憶する限り、そのゲレンデはガラガラヘビと名付けられていました。私はそのゲレンデの名前として、その名前以上のふさわしい名前は思い浮かびません。
その(フェニックスに帰れる)「楽しさ」は、ほんの始まりであったことを私は知りませんでした。理学療法を受けることになったのです。私は担当の療法士に「毒牙!」とアダ名をつけました。私の左足が言うことを聞かないのです。私の左足にとって、より痛みを生じさせようとする人のいうことなど聞きたくないのです。私の左足は慈悲を請い願いました。私の左足は「もうスキーはしない!」と叫びました。しかし、体の残りの部分は再び歩きたいと願い、さらにはもう一度スキーもしたいと願ったのです。
私は二つの痛みを伴う選択を迫られました。「毒牙!」とアダ名をつけた理学療法士の痛い訓練を信頼すべきか、信頼すべきではないか。それは信頼か、結末を受け入れるかの選択でした。私は残りの人生をこのまま、左足が不自由なままで過ごしていく – 左足はこの選択肢に投票しました – こともできます。或いは、私は理学療法士を信頼して、再び歩くこともできます。私の残りの体の部分は後者の選択を望みました。「毒牙」氏は僅差で勝利したのです。
その後の数か月間の理学療法の間、私の左足は残りの私の体、非常に嫌な意思決定をした私の残りの体の部にとどまりました。おかげで私は今日、左足を完全に使って、二本の足でだっています。意味お分かりですよね?
私たちはどうやって再び信頼できるかを学べるのです。私たちは信頼するように作られています。それは痛みの伴うプロセスかもしれず、しかし、その見返りが十分でないかもしれないのです。カギは信頼自体の問題では殆んどないのであり、私たちが何を或いは誰を信頼するかという問題なのです。私たちの信頼の対象は私たちの信頼のレベルを決定づけます。信頼しないことは不自然であり、私たちの人生の可能性や質を著しく制限することになるのです。
次週は、信頼について思いめぐらすことを続け、信頼について解き明かしたいと思います。その間、ここに知恵のある言葉があります。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言3:6-7)
エド・デルフ/Ed Delph February 15, 2021, CCC Part 1
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