これは私のパーティー、だから好きなように仕切る
- Ed Delph

- Jan 18, 2020
- 6 min read

私はパーティが好きです。何年も前に起きた有名なパーティーに一緒に遡ってみましょう。どうぞご一緒に。皆さんへの招待状は聖書のルカの福音書7:36-50です。その場面を皆さんの為に設定させてください。このパーティーへの二人の参加者が注目の的です。彼らは互いに正反対ですが、とても何かを必要としていたのです。
一人の参加者は高い職位の宗教指導者でした。彼はその弟子たちから尊敬され、崇拝され、認められていました。パリサイ人で、誰からも好かれていた教師でパーティーのホストであるシモンにまず会いましょう。今夜のパーティーの光栄なゲストは、ナザレのイエスです。当時は彼の周りで騒ぎが起き居ました。
しかし今夜は、他の参加者がシモンのパーティーで衝突しました。彼女は招待されていなかったのです。彼女は娼婦でした。彼女は泣きながらパーティー会場に入ってきて、イエスの足元にひれ伏したのです。彼女は泣き続けていました。彼女はイエスの足を髪の毛で拭きました。彼女はイエスの足を高価な香水で清めました。彼女は当時の全ての格式や礼儀手順を破り、彼女が本当に必要としていた赦しを得ようとしていました。
会衆は衝撃で静まり返りました。シモンの家に娼婦? そんなことが有ってはならない! 作家のMax Lucadoはこの場違いな瞬間を私たちの為にこう描いています。
「彼は見上げられていました。彼女は見下されていました。彼は教会のリーダーでした。彼女はストリートウォーカーでした。彼は、より良く生きる基準を作る人でした。彼女はそれを破壊する生活をしている人でした。彼は敬虔な人でした。彼女は罪びとでした。彼は言葉をよく知る学者でした。彼女は世の中しか知りませんでした。彼はイエスを自分のステータスを高めるために招待しました。彼女はそのパーティーを自分の必要の為に台無しにしました。彼はイエスに足を洗うための水を用意しませんでした。彼女はイエスの足を涙で洗いました。
彼はイエスに挨拶のキスをしませんでした。彼女はイエスの足にキスを、何度も何度もしました。彼はイエスの頭に香油を注ぐという旅行の礼儀を欠いていました。彼女はイエスの足に貴重な香油を注ぎ清めました。彼は他人がどう思うかを気にしていました。彼女は他人がどう思うかは気にしていませんでした。彼はイエスを利用しました。彼女はイエスを愛しました。彼は「律法」の型でした。彼女は自分が律法を犯したことを知っていたのであり、彼女こそは恵みを必要とする人の型でした。
シモンが考えていたことを想像してみてください。「彼女を見てみろ。イエスの足元に腹ばいになり、足に口づけする以外に何もできない。もしイエスが自分がそうだという人なら、彼はこの女と関わることはないはずだ。」シモンは基本的にこう考えていたのです。「これは私のパーティーだ。自分が好きなように仕切る。お前が気に入らなければ、お前を裁く。」
なぜシモンと娼婦がイエスにこれほど違う対応をしたのでしょうか?シモンは、その姿にも教育にも娼婦に対してはるか何光年も先でした。しかし彼女はシモンに対して一つの大切な点で何光年も先に行っていたのです。彼女は、切迫して神の愛と赦しが必要だと知っていたのです。シモンはそうではなかったのです。彼女の必要の深さは、彼女のイエスへの態度を形作ったのです。シモンの必要の深さは、シモンのイエスに対する態度を形成したのです。
それは律法の問題なのです。それは自分を勘違いさせてしまうのです。それは自分自身の目で自分を見て、自分を他人よりも聖いと感じさせてしまうのです。多くの場合、律法は教会を形作り、人々を宗教的にします。Max Lucadoはこう言っています。「シモンのような人は恵みを必要とせず、それを分析するのだ。慈悲を必要とせず、それについて議論を吹っ掛けるのだ。彼らはあまりに深く神について知りすぎてしまっているが故に、神を知ることに障害を持ってしまっているのだ。」お判りでしょう。裁くことと、尊大になることは罪なのです。
一方、イエスはその状況をシモン、そして私たちに対して教え導く時間として用いました。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
私たちが自分の赦しの必要性が非常に大きなものであると知り、それを受け取る時、私たちの反応は愛することであり、より愛するものなのです。もし私たちが、自分の赦しの必要性が小さいなら、私たちのイエスと他人に対する愛は小さなものでしょう。シモンは、自分は赦しの必要はないと感じていたので、彼は少ししか愛さなかったのです。シモンのタイプは、全ての罪びとには未来があり、全ての聖人には過去があるということを受け付けないのです。
イエスは最後の日々、人々の愛が冷たくなると言いました。何故でしょうか? 当時、教会に通っていようが、通っていまいが、ほとんどの人は自分の救いの必要性を受け入れていなかったのです。その結果、多くの人は他人を批判して裁く傾向が強く、ほとんど愛さず、条件が整っていれば躊躇しながら愛していたのです。
クリスチャンの皆さん、もし私たちが救われる前と後において自分の罪の赦しの必要性を理解していたなら、私たちの内側にいるシモン、そのまま時として私たち自身は沈黙するでしょう。それは更には他人、クリスチャンを裁く人だと考えている人々の、心と思考をキリストへと扉を開くのです。
今日、皆さんに私が提案したいより良いアプローチがあります。「I am a Christian」というお話から持ってきたものです。
私が「私はクリスチャンです」という時、私は「私はきれいな人生を歩んでいる」とは叫びません。私はこうささやくのです。「私は迷い出ていたが、見つけてもらい、赦してもらった。」私が「私はクリスチャンです」という時、私はこれをプライドを持って語りません。私は、よろめくものであり、だからキリストが私を導くものとして必要なのだと告白します。私が「私はクリスチャンです」という時、私は成功を自慢げに語りません。私は自分が失敗したものであり、自分のしたことを償うために神が必要だと認めるのです。
私が「私はクリスチャンです」という時、私は自分が完璧だと主張はしません。私のキズはあまりに大きく目立ち、しかし神は私が価値あるものだと信じていると言います。私が「私はクリスチャンです」という時、私は周囲の人々よりも聖くありません。私は、どういうわけか神の恵みを受け取った一人の罪びとだと言います。
皆さんは、イエスがどれだけそのパーティーの雰囲気を変えてしまい、こう歌っていたか気づきましたか? 「It’s MY party and I’ll love if I want to?」(1960年代のレスリー・ゴアの歌)
エド・デルフ/Ed Delph January 20, 2020, CCC
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