いつになったら十分に十分となるのでしょうか?
- Ed Delph

- May 15, 2021
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今日の世の中では殆んど多くの人々が完璧さを求めています、完璧さを求める人たちは、完璧な配偶者を求め、完璧な仕事を求め、完璧な人生を求め、完璧な政府を求め、完璧な環境を求め、完璧なアイデンティティを求め、完璧な社会を求め、完璧なすべてを寝求めるのです。
完璧さを求める人々が偏差値のトップに立って行動していると考えていても、彼らは他の人々に完璧さの基準を押し付けているのです。
問題は彼らが、自分やその集まりが求めている完璧さを他のすべての人々が満たすことを期待することなのです。何かを良くしようと望むこと自体には何も間違いはないのですが、全てのことに完璧さを要求することは、一人の些細な追及を全ての追求に拡大してしまうことなのです。なぜなら自分が欲しいものには十分な完璧さは決して存在しえないからなのです。キャンセル文化に入るだけなのです。良いものでも、過度なら、すぐに悪く破壊的なものになるのです。
この話は完璧さを求める人々が考えるべきことかもしれません。ある友人が男になぜ彼が結婚しないかを尋ねた。その男は答えた。「いいかい、私はまだしかるべき女性と出会っていないと思うんだ。私がしていたのは完璧な女の子を捜していたと思うんだ。」「ああ、なんてことだ。」友達は言った。「確かに君は少なくとも結婚したいと思った一人の女性に出会った。」「そうだよ。前に特別な女の子がいた。彼女だけが私が今まで出会った中で完璧な女の子だった。彼女は全てが良かった。彼女は私にとって完璧な女の子だった。」
「そうかい。じゃあ、なんで彼女と結婚しなかったの?」彼は答えた。「彼女は完璧な男を捜していたからさ。」完璧さを求めることは両方にあることなのです。
聖書に昔、ソロモンという男がいました。彼は満たされた人生を追い求め、それができたのです。彼は当時、最も地の上で富んでいた男でした。彼は自分が望むものすべてを買うことができ、することもできました。彼は全てにおいて卓越した男であり、卓越して度を越えていたのです。しかし彼は人生の意義と満足について尋ね求め始めたのです。彼は意義、アイデンティティ、安心感の新しい源を探し求めました。彼は、神のほかの何か或いは誰かの中に完全さを見つけられると思っていたのです。神が彼に莫大な富と全てを与えても、神は十分ではなかったのです。神は古臭く、時代遅れに見えたのです。神は十分ではなかったのです。
彼が完璧さを求めて探し回ったことは、私たちが拾い集められるように伝道者の書2章に収められています。
第三節には、ソロモンはこう言っています。「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。」数多くの人々がこれをしています。度が過ぎたアルコール、ドラッグ、向精神薬、鎮静薬、刺激物等々、は決して人生の傷を癒したり、人生に意味ある答えを与えたりはしないのです。何故でしょうか? 十分な高みなどは存在しないのです。過度な高みの問題点は、自分に低すぎるものがあり、それに続いてくる高みはその前に経験した高さより高くなければならないのです。
第4節ではソロモンはこう言っています。「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、」彼は人生がその町内で一番高い家を所有することが人生なのかどうかを見極めるためにより良い家と庭を建てようとしました。そのように彼は見えましたし、見られました。もしかしたら、彼はハリウッドのセレブのニュースに出ていた一人のようだったかもしれません。それは短期的な癒しにはなるでしょうが、やがては別の意義や安心感のあるものを探すようになるのです。邸内の木や建物が問題ではないのです。問題はソロモンの中にあったのです。彼は、心の中にある神の形をした空隙に他人や神以外の何かを埋めようとしたのです。
次に彼は自然や環境による満たしを求めました。「木の茂った森を潤すために池も造った。」(伝道者の書2:6) 彼は緑に心を向け、それが心の内側の空隙を埋めるのかもしれないと考えました。緑は良いものですが、緑を過度に重視すぎるのも問題なのです。過激な自然保護派の人々は時として、政治的になり、利己的になり、そして害になるのです。時として、そのような人々は自分が他人より徳が高く、自分のように過激な緑の尊重をしない人たちを、軽蔑し、完璧な人ではないとみなすのです。そして決して十分という状態がないがゆえに、緑を修復しようとする動機を周囲に広げるどころか、その動機を嫌がられることとなり、環境に懸念を持つ人たちも嫌な思いをするようになるのです。
ソロモンの続いての追い求めは、世の中で最も反映し豊かな実業家になることでした。7-8節で彼はこう言っています。「私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。」彼はその時代のアマゾンやFacebookにとって代わるような会社を興し、国のトップのユニコーン企業を創業したようなものなのです。彼は最新の、最も偉大な、最大の、最高の人になりました。ソロモンにとって、これは再びタイタニックを建造し、氷山の中を航海したのです。
そしてソロモンは全ての性的快楽や過度な快楽を試みました。第8節「私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。」もし性的快楽で人が幸せになるなら、世の中は太陽のように輝いているでしょう。しかし、「The Greatest Showman」の映画の中の歌のように「私にとって、十分というのはない」 しばらくすると、過度な性的快楽やその他の快楽は毒となり、空虚さになったのです。
最後に、ソロモンは史上、最も有名で豊かな男になりました。このことも彼の存在意義や安心感への探求を満足させることはできませんでした。ソロモンにとって、長続きする満足が得られる時はいつだったのでしょうか? 幸せ、充足感、完璧さ、人生の真の意味はソロモンにとっては油を体に塗った豚のようなものでした。彼がその豚を捕まえたと思うたびに、それはするりと腕から逃げていくのです。何か覚えはありませんか?
ついにソロモンは、あっそうか! と気づく時を迎えます。彼はその些細な追い求めが「すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」(伝道者の書1:14)と気づいたのです。彼の心の空隙を埋めることのできる唯一のものは神だったのです。彼は人生をこのように要約しています。唯一問題となるべきものとは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書 12:13) ソロモンの結論は私たちにも当てはまるのです。ついに、感謝すべきことに、十分なものが十分になったのです。私は油を塗った豚をようやく捕まえたと思います。
教訓は何でしようか? 過剰にとった良いものは、最終的には悪いものとなり、自分のその取り入れようとした動機を満足するよりも傷つけるのです。豚は肥え太り、太った豚はと殺されるのです。すぐれたものを追い求め、しかし完璧なものを追い求めるのではないのです。そうでなければ、自分が生み出した完璧に成長した嵐の中に追い込まれるのです。
いつ十分が十分になるのでしょうか? いつになったら、十分以上の神を私たちは追い求めるのでしょうか? 神は私たちを愛しており、このメッセージに同意しています。
エド・デルフ/Ed Delph May 17, 2021, CCC,
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