あなたの近所でその人は誰でしょう?
- Ed Delph

- Jul 2, 2022
- 6 min read

時々私たちの多くは取り残された気持ちになります。何か場違いな気がします。他の人々が自身に満ち、自分をしっかりと確かなものとしており、どのロープをたどれば良いのかを知る「内部の人間」、私たちが疎外された何かの集まりの古株に思えるのです。そして、その「部外者」はどうすればよいのでしょうか? 彼らも独自の集まりを形成するのです。
そのクラブはインフォーマルからフォーマルなものまであり、大抵はテーマ別なのです。メンバーは考えるのです。「自分が所属できる場所が少なくともここに一つあり、あの他の人々は別」アイデンティティや価値は他の人々を排除し自分たちだけで達成できる。このような集まりに支払う代償は現実を過少化し、人生を縮小することなのです。なぜでしょうか? 少なくとも自分たちにとっては、自身のことがすべてになるからです。
ルカの福音書の解説において、作家のEugene Petersonはこの傾向が政治、文化、国籍、社会の集まり、経済、宗教に存在すると述べています。「しかし宗教はこのことをしてきた長い歴史があり、神の膨大な神秘を小さくし、広大な人間のコミュニティをそのメンバーだけの範囲に縮小させた。」
ルカ書は「部外者」のために書かれた福音書です。ルカは「部外者」の偉大なチャンピオンなのです。なぜでしょうか? 彼自身も部外者であり、他の新約聖書の書き手が全てユダヤ人なのに対して彼だけが異邦人だったからです。当時の宗教指導者たちが部外者と思う人々に対し、イエスがどのように仲間に入れてきたのかを彼は示したのです。女性、普通の労働者、民族的に違うサマリア人、貧しい人々、さらには金持ちさえも。
Peterson博士はこう書いています。「ルカが話を進めていくに従い、私たち全ては自分たちが外側に立ち、入り口を探し当てる希望がない人生をのぞき込み、そして私たちの誰がそのような感情を持ったことがないと言えるのかという人生の感覚、そして扉が今や大きく開き、イエスにあって神によって歓迎されているのが見えるのだ。」
この考え方について良きサマリア人の例え以上に明確にしている聖書の例えはありません。イエスは彼の話を聞く人々に、そのたとえ話の登場人物に感情移入してほしかったのです。イエスは彼の話を聞く人々にこう考えてほしかったのです。「このお話の中の誰が私であろうか?」
良きサマリア人のたとえ話はイエスとの間の永遠の人生について若い宗教学者との間の話で始まります。イエスは旧約聖書を引用します。
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスはたとえ話で答えられた。
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
周りで聞いていた人々はこの変化球を予想していませんでした。若い学者と呆然と立ち尽くした聴衆はその日、あ、そうかと気づいたのです。覚えてください。サマリア人は当時ユダヤ人にとっては悪人だったのです。彼らは最悪の中の最悪でした。しかしねこのサマリア人が、宗教指導者たちか゛こうすべきだと決めたことを実行したのです。あなたの隣人を自身のように愛しなさい。
サマリア人がしたことは、Ku Klux Klanのメンバーの人がアフリカ系アメリカ人を助け、手当てをし、そして治療のための費用も支払った、またそれと反対も同様なのです。サマリア人がしたことは、イスラム過激派の人が、イスラエル市民を助けた、そしてそれと反対も同様なのです。私が反対も同様と言ったことに気づいてください。利他主義は両方向に働くのです。私たちの考えは聖書によって形成されるのであり、現在の不安定な、コロコロと変わる文化、あるいは親しいグループで形成されるものではないのです。私たちは、小さな白と小さな黒で見えるようになっている目玉のようなものなのです。
自己中心は安くつきますが、憐みは高い代償を求められます。サマリア人はすべての支払いに応じたのです。サマリア人は自身の時間、エネルギー、経済、感情を与えたのです。お判りでしょう。誰でもこの宗教学者のようになりかねないのです。私たちは正しいことだけを言い、そして何もそれについて実行しないことができるのです。ある人はこう書き記しています。「世界を愛するということは、何も面倒ではない。私の唯一の問題は隣の人だけなのだ。」
私とあなたはこのたとえ話の誰でしょうか? 私はこのサマリア人であることを望みます。そしてどうか誰かの必要に対応する時、そのしるしを美徳にしないでください。街角の貧しい人々に20ドルを与える都度、自撮りをしてソーシャルメディアにアップロードする人々に飽き飽きしているのです。それは利他主義ではないのです。それは自己強化でしかないのです。その良きサマリア人はその親切な行いに対して何も見返りを求めなかったのです。寛大さも同様です。この古い歌の通りなのです。「自分をよく見なさい。他人が違って見える。」
このお話のさらに象徴的なことはこれです。人道主義は道の端に居た強盗に襲われた人です。裸にされ、すべて取られ、瀕死の状態にあり、私たち全員は自分たちを救ってくれる良きサマリア人が必要なのです。多くの場合、宗教が私たちの周りを囲んでいます。しかし、残念ながら、多くの場合、政治、ビジネス、メディア、教育においても同様な状態なのです。
このお話の良きサマリア人は誰でしょうか? イエスは言いました。「私は人道主義に必要な代償をすべて支払った」そして彼はそれを実行しています。イエスは言いました。「あなたは私の隣人。それは素晴らしい隣りあわせだ。もしかしたら、あなたの周りの人がこう言うかもしれない。『あなた、私の隣人になってくれない?』」
エド・デルフ/Ed Delph/July 4, 2022/CCC
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