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あなたの未来 – 選択かチャンスか?

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • May 15, 2021
  • 6 min read

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以下に作曲家と赦しについての可能性の問題についての実話があります。毎年のクリスマスに作曲家のGiacomo Pucciniはケーキを焼かせて友人たちに送っていました。ある年、友人のArturo Toscaniniとクリスマス直前に喧嘩となり、その指揮者のためのクリスマスケーキをキャンセルしようとしました。しかし、それは遅すぎました。ケーキはすでに発送されていました。翌日、 Toscanini はPuccini から電報を受け取りました。「手違いがあってケーキが発送された。」Toscanini はこう返信しました。「手違いがあってケーキは食べられてしまった。」


今朝早く、Facebookページ上に私の友人からの小さなコメントが入っていました。彼はこう尋ねていました。「エド、どうやってあなたは赦しているの?」私は答えました。「私はコーヒーを飲むまでは、このような質問をしないのさ。」その質問は純粋で、そのリクエストは誠実で、私たちはこのような質問を結び付けることができるのです。


私が聖書の中で最もお気に入りのやりとりがルカ22章にあります。弟子たちが、その中でだれが一番かということで大きな言い合いをしていました。イエスはこのような会話が人間関係にストレスを与え、仲間を分断することを知っていました。そして彼はまた、ペテロに大きな試練が迫っていることも知っていました。


以下がイエスとペテロのやり取りです。「『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』シモンはイエスに言った。『主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」(ルカ22:31-34) もちろん、イエスの言っていたことは真実でした。ペテロはイエスを三度否定し、そしてその後、蛇の腹よりも低く自分を感じたのです。


イエスはこの出来事に対応する二つの選択肢を持っていました。彼は非難するか、或いはとりなすかです。イエスは議論を鎮めることもできましたし、もっと高い次元に引き上げることもできました。イエスは世界が何千年も続けていることをすることもできましたし、或いは彼は新しいものごとの進め方もできました。イエスは粗さがしもできましたし、修復することもできました。正すことは必要であり、しかし非難は必要ではないのです。


イエスはとりなし手になることを選びました。彼はペテロを非難するのではなく、ペテロの為に祈りました。彼は、ペテロは良い知らせを伝えることはできず、むしろ悪い知らせがあることを知っていました。彼はペテロの信仰と伝道活動が、その試練の後では、今までよりもはるかに偉大になり、その後は歴史が語る通りになることを知っていたのです。神は祈りにこのように答えるのです。Oswald Chambersは必要に迫られた人々のためのとりなしについて素晴らしい視点を与えています。「イエス・キリストは私たちのためのとりなしを天で担っている。聖霊は地の上での私たちの中でとりなしを担っている。そして私たち聖徒は全ての人々のためのとりなしを担うのだ。」


聖書はこれを「破れ口を修理する者」と呼んでいます。聖書の時代の昔、神は「わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者」を捜しました。ここで「築き」という概念に着目してください。一人の人は他人の為に「修理する者」になれるのです。イエスは非常に有意義な、私が呼ぶところの、「修理する者シップ」を持っていたのです。とりなすという言葉の定義は「自分を何かや誰かの守りの為に差し出すこと。破壊しようとする何かの危険から防護すること。矢面に立つこと。誰かに対する勇敢な反対。


今日、私自身と皆さんに対する質問があります。もし誰かが私たちに敵対したら、その人を非難するのではなく、その人の為に赦し、仲を取り持ちませんか? 赦しは過去を変えませんが、未来を大きくしていくのです。忘れないでください。他人が何をしようと問題ではないのです。自分が何をしているかが問題なのです。さらには、自分が赦したとき、神が自分の中に何をするかが問題なのです。私たちは、それを破壊した人や何かを赦すまでは、自分の心がどれだけ強いかを知らないのです。Jonathan Huieはこう言っています。「他人を赦しましょう。彼らが赦しを手にするためにどれだけのことをしたからではなく、自分が平和を手にするための努力として。」


ここに問題になるのではなく、解決になる為の姿を描いた一コマがあります。「昨日、私は冴えていた。だから私は世界を変えたかった。今日、私は賢い。だから自分を変える。」どんな教会も完ぺきではありません。どんなクリスチャンも完ぺきではありません。どんな人も完ぺきではありません。どんな人の組織も完ぺきではありません。どんな結婚も完ぺきではありません。もしすべてが完璧でなければならないなら、私たちはここに存在できないのです。人生は葛藤を生み出します。今日、不完全な他人を赦すことのできない不完全な人たちが山のようにいるのです。それは皆で輪になって互いに銃を向けているようなものです。


不完全さを見つめることをやめ、イエスキリストという完全さとのつながりを作りましょう。自分は、焦点を合わせて見つめているものになるのです。偽善者を見つめたら、偽善者になるのです。もし自分が今赦さないなら、将来、自分が赦しが必要になった時、赦しが得られないのです。自分を変えることを学びましょう。自分が赦さないことに固執すれば固執するほど、赦さない気持ちはさらに長く自分にまとわりつくのです。そして自分はカオスの候補者になるのです。


自分はとりなし手でしょうか? 或いは非難する人でしょうか? 今日、私たちが見かけるニュースの大半は、私たちの文化の中に赦しを失ったことから来るものです。赦しがなければ、人生は償いと報復の無限の輪の中に支配されるのです。赦しは過去に起きたことを認めることではないのです。それを超えて、上に出ることを選ぶことなのです。忘れないでください。最初に謝罪したものが最も勇敢なのです。最初に赦したものが最も強いのです。最初に忘れたものが最も幸せなのです。


これは自分の未来のことなのです。選ぶのですが、賢く選びましょう。自分が問題なのではありません。自分が解決なのです。ヒント;間違うものが人間なのです。赦すことは聖なるものなのです。神が私たちを許したなら、私たちはその赦しを他人に広げることが出来ないということがあるのでしょうか?


エド・デルフ/Ed Delph CCC April 26, 2021



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