「私は考え、彼は臭う」か「予言的なメッセージで臭いだす混乱か」
- Ed Delph

- Apr 16, 2022
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よろしいでしょうか、イースターは先週の日曜日でした。復活が私たちの頭の中にあるうちに、もう一つのイースターの復活に先だって起き、貢献し、語り継がれた「死者からの復活事件」から自分が変化する教訓を刈り取りましょう。その出来事はキリストの復活の少し前に起きていたのです。
神が行動に起こす前に、何かの問題が起きて匂わせることを許すことをご存じですか? 言い換えるなら、私の友人のJack Canadaの神についての歌が言う通りなのです。「He may not be there when you want Him, but He’s always right on time.(自分がいてほしいと思う時に彼はそこにおらず、でも彼はいつもちょうど良いタイミングでいる)」そして神が遅く到着した時や他の方法で現れた時、それは決して神のあなたに対する無関心を示すようなものではないのです。それは神の永遠の目的のために最もよいタイミングだからでしかないのです。
場面を設定ましょう。この場合の最初の復活はイエスの親しい友人のラザロでした。マリアとマルサもイエスと親しい人々でした。ラザロが重い病状であると姉妹たちはイエスに使いを送りました。しかしイエスはラザロがいるベタニアに到着した時には二日ほど手遅れでした。
イエスがベタニアに到着した時、ラザロは死んでいました。聖書はそのことをこう伝えています。「マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」(ヨハネ11:32)
そしてラザロはすでに墓の中であり、二人の姉妹は泣いており、人々はイエスがラザロを癒すか何かできるのかをじっと見つめていました。このシーンは聖書の中のもっとも短い一文に込められています。「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35) しかし自分が何もできず落胆する多くの時を理解してください。神は立ち上がり何かをするのです。この場面は数日後に訪れるイエスの将来を予言的に示し場面設定をしているものでもあるのです。神は人々のために既に用意したもののために、人々の心の準備をさせていたのです。
ここに教訓と全体像があります。聖句から初めて、解説したいと思います。
教訓1 ; イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(ヨハネ11:39)
マルサは私たちや皆さん同様、「匂う考え」をしていました。彼女はイエスが奇跡を行うのをそれまで見ていながら、「これはすでに手遅れ。難しすぎる、大きすぎる、既に四日経っており、匂いもひどいはず」これを考えてください。奇跡を起こすには問題が必要なのです。癒すイエスは常に問題から始めていました。マルサの問題は問題ではなかったのです。彼女の非常に人間的な匂うという志向が問題だったのです。
教訓2; イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」(ヨハネ11:40-42)
このすべての出来事はそこにいた人々の益のために仕立てられていました。イエスは日数の問題において同じ立ち位置にいました。イエスはその奇跡を行い、神の人々が匂うという考えによりイエスの処刑後の緊張した日々において神を信じることを止めないようにしたのです。この出来事は、私たちが神を信じることを止めないようにと起きてもいだのです。神には時があり、それは彼の不変の目的のためであり、私たちのすべての益のためでもあるのです。信仰は疑いを持たないことではありません。信仰し信じることが心に存在することなのです。
教訓3;そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:43-44)
イエスは彼らと私たちにこう語りかけています。「多くの人々がその人生を通してとらわれてしまっている匂いがする埋葬の布切れと恐れの奴隷である匂いがする鎖を取り去りなさい。神は生きている。永遠の人生は存在する。神は彼らと私たちにこう語っている。私の家には多くの部屋がある。もしそうでなければ私はそうは言わなかった。」注)イエスは「ラザロ」と指名したのであり、そうでなければすべての墓の中の人が出てきたのである。
教訓4; しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」
・・・・・その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。(ヨハネ11:46-48, 53)
キリストの十字架上の処刑と復活はラザロがその墓から出てくるところから始まっていたのです。宗教的な中心指導者たちはその民とローマ人にラザロの奇跡を知られたくなかったのです。彼らはメンツを失い、立場を失い、栄誉の恵みを失いかねなかったのです。権力の座にあるものは権力を失いたくないのです。そして彼らはイエスの命を奪おうと計画を立てたのです。彼らはイエスの十字架のオーケストラの一因になったのです。しかし死はイエスを十字架の中に止め置くことはできませんでした。ラザロのように、彼は墓の中から立ち上がり、二度と死ぬことはなかったのです。
私たちの教訓;大きな混乱や不可能に思える状況とは、神がそのより偉大な目的のために許した何かである可能性があるのです。神は無関心でないのです。死からラザロを蘇らせる中で、イエスは愛した人々に仕えました。イエスは神に栄光を帰し、神の力を死の上に明らかにし、その民を将来の出来事に備えさせたのです。彼は泣きもしました。彼は匂うという考え方によってイースターを台無しにしたくなかったのです。メッセージは伝わったでしょうか?
エド・デルフ/Ed Delph April 18, 2022, CCC
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