「属するもの」の明確な違い
- Ed Delph

- Jul 24, 2021
- 5 min read
私たちは時として明らかなものを見失っています。あるお話で描かせてください。
ある農夫が二頭の馬の違いが判らなかったので、一方の馬の馬の尻尾を切った。しかし、すぐに生えてきたのでうまくいかなかった。そこで彼はもう一頭の馬のたてがみを切った。しかしそれはすぐに生えてきたので、うまくいかなかった。ついに彼は二頭の馬を計ってみたところ、白い馬の方が黒い馬よりも5cm背が高いことに気づいた。
COVID19ウィルスによる被害で最も大きいものの一つは、人間関係の破壊あり、特にその関係が最もよくあるべきところに生じています。いくつかの例を挙げると、Zoom Meeting, マスク、ソーシャルディスタンス、死への恐怖などが私たちを、目に見えているべきものから、遠ざけています。それは政治、結婚、ビジネス、友人関係に影響し、人々は主要メディアとSNSに洗脳され、より怒りに燃えて人間関係を壊していくのです。残念ながら、COVIDで良い目にあっているのは犬たちなのです。
COVIDの制限は私たちの教会と教会の人々に影響しています。どうやってでしょうか? 教会の生きた側面を消していくことによってなのです。少し説明させてください。
Luciano DeCrescenzoはこう言っています。「私たちは皆、片方の翼だけを持つ天使である。私たちは他人と結びついている間だけ、飛ぶことが出来る。」これは素晴らしい言葉の絵です。はるか昔、ビジョン、タスク、達成、ゴール、駆け引きなどが存在する前は、人間関係があったのです。父、息子、そして聖霊は「一つの神」と呼ばれる深い関係にあるのです。
キリストを追い求めるものになることは、つながっていくことです。教会は神によって、上向き、内向き、外向きのそれぞれに向くように創られたのです。クリスチャンは神と結びつき、互いに結びつき、地域社会に結びつくように定められていました。互いに結びつくという意味(教会の内向きのミニストリ)において、私たちはもう片方の羽を求めて結びつくことを発見しました。聖書は全ての信じる者には賜物の量りがあると言っています。ですから、私が賜物の量り(賜物のある大きさ)を持っており、相手が賜物の量りを持っており、神による結びつきの形になっているなら、二人はともに賜物の量りから量りのない賜物へと進むことが出来るのです。
それが神が教会をチームとして創った理由なのです。教会は大きさに制限のない賜物、すなわちイエスのミニストリ、を示すために召されたのであり、それは世の中に対するものです。チームワークは神のドリームワークを生み出すのです。神の民が神、そして互いに結びつくとき、それは教会の雰囲気に染み出していく鼓動を生み出し、それが周辺社会に広がっていくのです。イエスはこの点をヨハネの福音書13:35にて示しています。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」正しい人間関係は、教会の内側と外側への真のミニストリを広げるのです。
ギリシア語のこの超自然的なシナジーを指す言葉で聖書が用いているのは、Koinoniaです。Koinoniaとは聖霊を通して神とつながり、他人とも聖霊を通してつながることです。それは聖霊を持つ人が聖霊を持つ人とつながり、神の人生が彼らの間に成り立つような形で関係が形成されたときのことです。それは神により力を与えられた正しい人間関係なのです。それは生きているのです。それは友だちであることを超えるのです。それはそこに属していることであり、単に信じることではないのです。それは皆に同時に起きることなのです。それは新鮮なのです。それは癒しなのです。それは信徒たちの間での行動を伴う恵みなのです。それは教会の建物を囲う四方の壁の中にあるべきではないのです。コイノニアは、二人または三人がイエスの名のもとに集まった時にできるものなのです。
Koinoniaはクリスチャンが他のタイプの会合に参加するのとは際立って違うように創られているのです。Hashtags, Twitter, iPhonesそしてFacebookはKoinoiaにとって代わることはできません。社会で交わることは素晴らしいことです。しかしそれは、キリストを信じる者たちとそこに属する者たちの間に流れる神の人生のすばらしさと驚きに勝るものを生み出すことはないのです。
このことを考えましょう。教会とは何でしょうか? 教会とはイエスの周りに一体になってお互いに集まった召された人々の集まりです。教会は人々とともにキリストを求める場であることが最終的なゴールです。それは神の言葉を単に学ぶだけではなく、神の言葉で生きる場所なのです。自分の教会の家族と共にキリストを追い求めたいという望みは非難される苦痛、モラルの堕落に対する失望、そして教会生活の凸凹を上回るものなのです。
起用会は家族です。私は自分の家族が誰であるかを選んだのではありません。神が選んだのです。教会は、人々が人生の日々の喜怒哀楽、勝利、失望を通して耐え忍ぶ場所なのです。それは互いに成長することです。それは一人の人よりも大きいものなのです。それは信じる以上のことなのです。それは属することなのです。それは教会の中と外の両方で、自分自身よりも他人のことを思いやることなのです。この属する人々が地域社会の中の必要を見つけだし、それが現実と会っていた時に、他の人々を引き付けていくものになるのです。
信徒になることは素晴らしいことです。しかし、信じるものであると同時に属するものになることはさらに良いことだと言わせてください。何故でしょうか? そこには真のコイノニアがあり、天使の羽がたくさんあるからです。
今日の学んだことです。信じるものである皆さん、COVIDに教会や純粋な信徒たちと毎週顔を合わせる機会を奪わせないようにしてください。そして、私たちが完全なロックダウン下にないのであれば、自分のもう片方の翼を取り戻しましょう。自分が以前属していたところを取り戻しましょう。つまり、私たちの誰ひとりとして、私たち全員ほどには偉大ではないということなのです。
私は信じるものと属する者の違いが農夫の白い馬と黒い馬の違いよりも明確になったと思います。
エド・デルフ/Ed Delph July 26, 2021. CCC
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