2021に教会と文化が遭遇するもの
- Ed Delph

- Jun 26, 2021
- 6 min read
Updated: Mar 29, 2022
漫画家のGary Larsenは、ある素晴らしい風刺漫画を描きました。それはオスの鹿がおなかにターゲットの模様が入っている絵です。別の鹿がこれを見て言うのです。「生まれつきの斑点の失敗作だね。」
私たちが誰しも、よくハルのような気持になるのですが、教会のことも考えてみましょう。今日のクリスチャンたちは、教会の外で人々のレーダーに捕捉されているのです。主要メディア(現在の95%)はキリスト教会にかかわることを非難しており、その速度は弾丸よりも早いのです。
多くの教育者たちは教会の人々を不遜で人を裁くと非難しています。ある場合においては、この非難は的を得ています。しかし、一つの悪い見本は全ての見本ではないのです。事実は95%の牧師たち(私の推測)と教会の人々は世の中を良くしようとしているのです。彼らは完璧でしょうか? いいえ。彼らは毎回正しい判断をするでしょうか? いいえ。彼らは水の上を歩くのでしょうか? 無理でしょう。これらの非難に値するでしょうか? Yes。
英国のPhil Hinesはこの点についてのイエスの話をしています。イエスはある日、道を歩いていると、泣いている男たちを見かけました。彼がどうしたのかと聞くと、その人たちは答えました。「私たちは目が見えません。」そしてイエスは彼らを癒してあげました。さらに歩いていくと、別の男たちが目に涙を浮かべていたので、同じ質問をしました。彼らは答えました。「足がなえているのです。」イエスは彼らを癒してあげました。そしてイエスが、 泣いている第三の男に遭遇しました。イエスの問いに答えてその人は答えました。「私は今日の世界の教会に通っているのです。」イエスは共に座り泣きました。
ここに私たちのポップカルチャーと教会の間の一方通行のコミュニケーションがあります。それは現代社会の全ての会話と呼ばれるものです。
世の中;私たちはXをしたい。教会;自由にしていいよ。世の中;しかしあなたはXを罪だと思っている。教会YES。世の中;それはあなた方が私たちを支配しようとしているからだ。教会;いいえ。あなたは何をしても自由なのです。世の中;しかし、あなたはXを罪だと思っている。教会;はい。ただそれは、あなたのための最終的な益のためです。それがあなたへの神の愛の定義なのです。世の中;でも私たちはXをしたい。教会;それはあなたの自由です。世の中;しかし私たちはXは良いと言いたい。教会;私たちにはそれは言えません。世の中;なぜ、あなた方は私たちを憎むのですか?
そうなのです。どこで人は「なぜ、あなた方は私たちを憎むのですか?」と言い出すのでしょうか?もし教会がXは良いと言わなければ、それは個人的な問題になり「私たちを憎む」と受け止められるのです。これが袋小路の一方通行のコミュニケーションなのです。一方の声が会話を支配し、他方はコンプライアンスに従いたいと思っているのです。今日の教会はこの状態に陥り、これを憎んでいるのです。しかし、現在の文化の思考で固められた人々は、教会を憎んでいたあることをしているのです。私たちは横にそれているのです。人々が人々に面と向かって話しているのであり、人々に語り掛けているのではないのです。たとえ彼らがどちらの側に立っていたとしても、そうしてしまっているのです。
以下に、お腹にターゲットの絵を持ったハルに互いになってしまい、会話をしている教会と世の中の文化についていくつかの思いがあります。
1) 現在のポップカルチャーと教会の双方の間に先入観があります。先入観とは、自分がそうなっていないのに、そうだと決めつけることです。狭い考えの人は、狭い首をしたボトルのようなものです。その首が小さければ小さいほど、注ぐときに大きなノイズが出るのです。それは息苦しく悪い呼吸をしているようなものです。誰しも自分以外はそうなっていると思ってしまっているのですが、自分のことには気づかないのです。繰り返すフレーズを小さくしましょう。社会的になり、敵対的にならないようにするのです。
2) 「プライドの高い人というのは、常に人々や物事をミグ足しており、そしてもちろん、自分が見下している限りは、自分の上にあるものが見えないのです。」C.S.Lewis。自分が一段高いモラルの山に上がってしまったら、自分より高いところにあるより良い道が見えなくなると想像してください。それは人々を「最後に裁くのが目的」だという低い道へと導き、そのような行動パターンは社会の毒なのです。
3) 「私が誰かに反論された時、自分が非難されていると感じるような幼稚な間違いをさせないでください。」Ralph Waldo Emerson。そこには純粋な被害者がいるかもしれないのですが、自分が非難されているという被害者を演じることで、会話を閉じてしまうのです。Eric Hofferはこう言っています。「私たちにとって最も大変なごまかしは、私たちの中の醜さや醜悪さを隠すためにするのではなく、中身が空っぽだということを隠すためにすることだ。もっとも隠すのが難しいのは、そこにないものだ。」
4) 過激主義、過激に向かうことは毒であり一方通行になります。過激主義は自分の足を霧の中で歩ませるようなものであり、立ち止まるべき時にもわからないのです。自分がどこに行くのかを知ることは、そこに早くたどり着くことよりも大切なのです。実際の成果に焦り、忍耐不足の拙速な行動に走らないようにしましょう。
5) 現在の我々の文化において、私は、神が私たちにXについて警告し、人々や社会に破滅的な結果をもたらす時、その教会があなたのそのXを握りしめるなどと期待しないでくださいと言わせていただきます。神は私たちにXからの自由を持ってほしいと思っていますが、Xだけの問題ではないのです。それは支配の問題なのです。神は私たちすべての側にあり、自分に敵対していないのです。聖書的な教会で話に耳を傾けるだけで十分なのです。彼らがそこにいるのは、あなたによって導かれるためであり、ステージ上でバカ騒ぎをしているのではないのです。
6) 次のWilliam Ward carefullyの言葉を注意深く読んでください。これは緊張感漂う今の社会で素晴らしい言葉です。「自分が話す前に聞きなさい。書く前に考えなさい。お金を使う前に、稼ぎなさい。投資する前に調査しなさい。非難する前に一息おきなさい。祈る前に赦しなさい。あきらめる前に挑戦しなさい。定年になる前に、貯金しておきなさい。死ぬ前に、与えなさい。」これを実行することは、フレーズを繰り返すことから、現実へと私たちの軸足を移させるのであり、築きあげるのではなく破壊するような偽りの態度から遠ざけるのです。
Linus Dowellはこう言っています。もし人が人生を豊かに生きようとするなら、実際の行動の適切な量が精神的な行動量と信仰的な行動量と混ぜ合わさっていなければならない。信仰的な行動量が欠落していると、人々の人生は空洞だらけになる。精神的な行動量が欠落すると、人々は鈍感になる。実際の行動が伴わないと、人々は野菜になる。」一人一人は、仲間がいないと不完全なのです。
もし私たちか少しばかりの知恵を手にして、フレーズの繰り返しから破り出てくるなら、私たちは現在の文化の中と2021年の教会、そしてその先の未来の教会に存在する二つのハルのターゲットのマークを消すことが出来るのだと思います。
エド・デルフ/Ed Delph June 28, 2021, CCC
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