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毎日自分が言っていること

  • Writer: Ed Delph
    Ed Delph
  • Aug 6, 2022
  • 5 min read

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私が世界中の教会やリーダーシップカンファレンスで旅をして語っていく中で、私はキリスト教に対する国境を越えた考え、深くしかしまっすぐな知恵、というリフレッシュメントを持ってくる誰かに出会います。


私がシンガポールのJimmy Limと1999年にあったのはまさにそれでした。彼は神の品格を持つ人です。私は40回以上シンガポールを訪問しましたが、いつもJimmy Lims

妻のChristine Limに連絡します。真がホールのような場所は他にありません。Crazy Rich Asiansという映画に出てくるような多くの場所を私は訪れたこともあります。


シンガポールにあるJimmyの3階建ての家に入ると、彼が飼っている4羽のオウムに気づかされます。Jimmyと妻のChristineはそのオウムたちに聖書の言葉や関連する言葉を教えているのです。私がある朝、朝食を食べていると、彼らの黄色アマゾンオウムのJessieが完璧なシンガポール訛りの英語で「バイボー(聖書)はこう私に言っている」というのです。私は笑い出しました。オウムは、私がJimmyに話すときに使う完ぺきなシンガポール訛りの英語を知っているのです。


ある夜の午後11時、Jimmyは家に帰ってきました。そしてオウムの一羽が大きな声で鳴き始めました。「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」そしてJimmyはオウムを静かにしようとして言いました。「静かにしろ、隣の人が起きるだろう。静かに」


Jimmyがこの出来事を思い出しながら、彼は私にその時見つめていた考えを話しました。「そして私はバイボーが言っていることを思い出しました。『息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。』(詩編150:6) Jimmyは続けました。「そして私はオウムに言ったのです。OK、私はあなたを止められない。あなたは息をしている。だから主をほめたたえないといけない」私は笑って考えるだけでした。Jimmyは正しいのです。オウムは主をほめたたえなければならない。シンプルで、深く、信頼でき、信じることができ、まさに主が求めているものです。


私はJimmyが引用した聖書の言葉「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」に少し肉付けしたいと思います。詩編34:1はこう言っています。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」


「息」と「口」という二つの言葉のつながりに気づいてください。そこに心を開くなら、驚くような逸話が隠されているのです。私はそれをFacebookの「使徒第二章(Second Chapter of Acts)という音楽グループのページで見つけました。ヒューストンにあるMemorial Church of ChristのSandra Thurman Caporaleが息のあるものすべてに主をほめたたえさせよということについて書いたことを読んでみてください。


モーセが勇気をもって神にその名前を聞いた時がありました。神は恵み深く答えました。そしてその名前は古代ヘブル語でYHWHと記録されました。時と共に私たちは勝手にaやeをつけてYaHWeHにしました。私たちは母音が好きなのです。


しかし学者やラビたちはYHWHは息をしている音、あるいは息を吸う時の子音であることに気づいています。間の母音を飛ばして発音すると息のような発音なのです。最初はYH(息を吸って発音)、そしてWH(息を吐く)と発するのです。


ですから赤ちゃんの最初の泣き声、彼らの最初の息は神の名前を言っているのです。ため息は神の名を言っているのであり、この世の中について重すぎた時に出る嘆きやため息もそうなのです。無神論者や不可知論者(神の存在は否定も証明もできないとする人たち)でさえも、彼らの呼吸が神を常に認めていることに気づかずに、神の名を唱えているのです。そして人がこの世を去る時も、もはやその後は肺には何も入らないという最後の呼吸で神の名を言うのです。


ですから自分が完全に何もできないとき、自分の息は神の名を呼んでいるのではないでしょうか? 私たちが息をしている時、私たちは神の名を絶えず呼んでいるのです。ですから自分が最も静かになっている時にこそ、もとっも明確に神に聞かれているのではないでしょうか? 悲しみの時に、私たちは深いため息をつきます。喜びの時に私たちの肺は破裂するほどに息を吸い込みます。恐れの時に、私たちは息を抑えて、息を静かにしていきながら自分を落ち着かせます。何か困難なことをしようとするとき、私たちは深呼吸をして心に勇気を持ちます。つまり、最も困難な瞬間にさえも息は神を称えているのです。


この事実は美しく、自分が落ち込んだときは常に満たされるものです。私たちが生きているすべての瞬間において、自分ではどうにでもできないときさえ、唱えることのできる神の名前を私たちに神は教え与えたのです。私たちは、常に、どこにいても、歩いていても、寝ていても、息をしていれば、神の名前が私たちの口から出ているのです。」


もしYHWHあるいはヤーウェの意味を知らないのであれば、ここに定義があります。YHWHは「私はある」という言葉の意味を超えて作り上げられた適切な意味ある名前(ペテロやヨハネのように)であり、私たちに神が絶対であるということを思い出させるものなのです。そこには暗黙の神聖さが込められているのです。


YHWHは聖書の創成期1:7にある人間の創造を思い起こさせます。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」ですから私はヨハネ20:21-22にある蘇られたイエスが驚き騒いでいる弟子たちに言ったことは決して偶然ではないと確信しています。「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」


私たちは神を讃えることを少なくしすぎることはできず、大きくしすぎることもできないのです。詩編を歌ったダビデはだからこう言っているのです。「日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。」(詩編113:3)


ここに持ち帰るべきことがあります。私たちが問題に焦点を当てれば当てるほど、その問題は私たちに焦点を当てて向かってくるのです。困難に圧倒されたとき、神を讃えることが最後に自分が出来ることなのです。しかしそれは私たちが成すべき最初のことでもあるのです。神を讃えることは自分が焦点を当てているものから目を離し、YHWHへと目を移すことなのです。


考えてください。皆さんは主を讃えていると思います。そして私たちは主を讃えることをどんなことがあってもしているのです。そしてすべてのオウムはこう言うのです。「ハレルヤ」


エド・デルフ/Ed Delph/August 8, 2022/CCC

Ed Delph/NATIONStrategy

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